オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(23)

世阿弥(1363−1443)

日本に古代から伝わってきた芸能のひとつに、猿楽とよばれるものがありました。こっけいな、物まね、曲芸、おどりなどを中心にした芸です。神社や寺の祭り、貴族の集まりなどで、人びとを楽しませるためにおこなわれてきました。

世阿弥は、この猿楽に、奥深い歌や舞いや劇をとり入れて、能楽とよばれる新しい芸術をつくりあげた人です。猿楽を演じる観世座という一座をおこし、のちに能楽観世流の祖とあおがれるようになった能役者観阿弥の子として生まれ、幼いころから、父のきびしい教えをうけて成長しました。

12歳になったころ、世阿弥の能役者としての道が、大きく開かれました。猿楽に舞いをくわえた猿楽能を、室町幕府の第3代将軍足利義満の前で父といっしょに演じて、義満にかわいがられるようになったのです。観阿弥、世阿弥の芸がすばらしかっただけではなく、美少年だった世阿弥のすがたが、このとき16、7歳の義満の心をとらえたのだろう、といわれています。そののちの世阿弥は、祭りや歌の会などにも義満にまねかれ、貴族と交わる生活を楽しむようになりました。

しかし、自分の芸をみがくことは、けっして忘れませんでした。能の道に生きることを、しっかり心に決めていたからです。

世阿弥は21歳のころ父が亡くなると観世座のかしらをひきつぎました。そして、観世座をさらに発展させるいっぽう、能とはなにか、能の歴史、能を演じるものの心がまえを説いた『風姿花伝』などの本をまとめ、亡き父をのりこえて、能の芸術を深くきわめていきました。

とくにきびしく追いもとめたのは、平凡で静かな動きのなかに深い味わいをだす、幽玄の世界です。人びとに目と耳で楽しませてきた猿楽を、心で感動させる芸へ高めようとしたのです。自分の筆で数おおくの能の名作を書き、また、能芸術論『至花道』『花鏡』などもつぎつぎに発表して、能楽の花を大きく開かせていきました。

ところが、義満が亡くなったあと、やがて第6代将軍義教の世になると、義教につめたくあつかわれ、思いがけない悲運におそわれました。観世座のかしらの地位をうばわれただけではありません。1434年には、わけもわからないうちに佐渡へ流されてしまいました。そして、数年ごに京へもどってからも消息のわからないまま、およそ80年の生涯を終えてしまいました。

晩年の世阿弥は不幸でした。しかし、世阿弥の心はいつまでも生きつづけ、能は日本の伝統芸能へと発展しました。


もどる
すすむ