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(23)

宗祇(1421−1502)

日本で生まれた歌の一種に、連歌とよばれるものがあります。ふたり以上の人が、まえの人の句につづけて、次から次へ句をよみつらねていく歌です。別の名で「続き歌」ともよばれ、平安時代のころ生まれたと伝えられています。

宗祇は、この続き歌を、さらに大きく育て広めた、室町時代の連歌師です。生まれたところは、近江(滋賀県)とも紀伊(和歌山県)ともいわれています。幼いころのことはわかりません。若いうちに京都へのぼって禅宗の僧となり、30歳になったころから、連歌師への道を進みはじめました。

「こころざしを立てたのが、人よりも10年以上もおそかった。人の2倍も3倍も努力をしなければ」

宗祇は、何人もの師のもとへかよって、連歌だけではなく、和歌も、日本の古い文学も、漢詩も、さらに日本の国づくりのころから伝わる神のことなども学びました。連歌の心をきわめるには、深い教養と広い知識を身につけることが、たいせつだと考えたからです。そして、学問のかたわら歌をよみつづけて10年の歳月が流れたころには、連歌師宗祇の名は、貴族のあいだにも武士のあいだにも知られるようになっていました。

宗祇が46歳になった年に「応仁の乱」がおこり、京都の室町幕府を中心に諸国の武士が2つに分かれて、11年におよぶ争いがつづきました。長い争いに、京の都は、焼け野原に荒れ果てたということです。

宗祇は、このとき、京都と関東のあいだを何度も行き来しました。信濃(長野県)や越後(新潟県)や美濃(岐阜県)などへも足をはこびました。また、争いが終わってからも、周防(山口県)や筑前(福岡県)へ、さらに越後へと、旅をつづけました。宗祇がつくりだす連歌の美しさがしたわれ、また、宗祇の学問の深さが尊敬され、争いで心が荒れた地方の大名や豪族たちに、師としてむかえられたのです。都をはなれた旅の空の下では、町人や農民たちにも、連歌の楽しみを教え広めました。

いっぽう京都では、幕府の将軍や貴族の連歌会にまねかれて歌の心を説き、将軍には『源氏物語』など日本の古典の講義もおこない、さらに『新撰菟玖波集』などの句集もまとめました。

奥ぶかく上品で美しい連歌を愛し、文学を愛し、旅を愛した宗祇は、80歳をすぎて旅にでた途中、箱根(神奈川県)湯本の宿屋で、谷をわたる風に耳をかたむけながら、清らかな歌人の生涯を終えました。のちの俳人芭蕉は、この宗祇の心をしたって、句を旅のなかに求めるようになったのだということです。


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