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(23)

足利義政(1436−1490)

足利義政は、室町幕府の第8代将軍です。父義教は殺され、父のあとをついだ兄義勝は病死して、義政は、わずか13歳で将軍になりました。しかし、幕府の実権をにぎっていたのは、細川勝元、山名持豊らの守護大名でした。そのうえ、ききんがつづいて農民たちの一揆がおこり、世は乱れていました。

義政は、自分の思いどおりの政治ができないばかりか、農民や貧しい人びとの借金を取り消す徳政令をなん度もだして、世の中の経済をみだしてしまいました。農民たちのことを考えたからではありません。義政は意志が弱く、農民たちの強い訴えにいつも負けたのです。そして、妻にむかえた日野富子や富子の兄の日野勝光までが、政治に口だしするようになると、将軍義政の存在は、ますます影のうすいものになっていきました。

「勝元に助けさせて、弟の義視をつぎの将軍にしてしまおう」

やがて義政は、のんびりした気ままな暮らしを求めて、将軍職を弟にゆずる決心をしました。

ところが、義視に将軍の位をゆずる約束をしたよく年、富子が、義政の子義尚を生みました。母親が、わが子を将軍にしようとねがうのはとうぜんです。富子は、持豊をうしろだてにして義尚をたて、義視をしりぞけようとしました。すると、ほかの守護大名たちも、自分の立場を有利にすることだけを考え、勝元がわと持豊がわに分かれて、対立するようになりました。

1467年、将軍の座をめぐる争いは、細川氏と山名氏の勢力争いもからんで、京都を中心に、日本じゅうを戦乱のうずにまきこみました。これが、11年にもおよぶ応仁の乱の起こりです。

義視をたてた義政は、勝元がわにつきました。でも、戦乱のようすを、ただ、ながめているばかりでした。つぎの将軍のことなど、どうでもよかったのかもしれません。

戦乱が始まって6年ご、義政は、義視との約束をやぶって義尚に将軍職をゆずり、趣味の世界へ心をよせていきました。そして、争いがおさまると、長い戦で京都の町は焼け野原になったというのに、東山に山荘を建てることを計画しました。1階を書院造風の住宅、2階を禅宗様式の仏堂とした銀閣です。

政治に無力だった義政は、幕府の権威をおとしました。しかし、のちの世に大きなものを残しました。義政の力が中心になって栄えた建築、生け花、茶の湯、連歌、能楽などの文化です。いまはこれを、銀閣の地名から東山文化とよんでいます。

晩年を文化人として生きた義政は、54歳で亡くなりましたが、このとき、夢にえがいた銀閣は、まだ完成していませんでした。


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