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(23)

毛利元就(1497−1571)

毛利元就は、今から約500年前に、安芸国(広島県)で生まれました。父の弘元は郡山城主でした。

4歳で母を亡くし、9歳で父を失い、少年時代の元就は、城主の子とはいっても、たいへん不幸でした。そして、父のあとをついだ兄も、さらにそのあとをつぐはずだった兄の子も、つぎつぎに亡くなり、元就はいつのまにか、毛利家のあとをつぐことになっていました。

元就は、26歳で、郡山城の城主になりました。しかし、このころの毛利氏はまだ力が弱く、そのうえ、周防・長門(山口県)の大内氏、出雲(島根県)の尼子氏にはさまれ、いつも、敵の侵略におびえていなければなりませんでした。

孤立していてはきけんです。元就は、初めは尼子氏に従い、のちには、長男の隆元を人質に送って大内氏と手をむすびました。また、次男の元春を吉川氏の、3男の隆景を小早川氏の養子にして、しだいに安芸全体に力をのばしていきました。

1551年、大内義隆が陶晴賢の反逆によって討たれ、大内氏は滅んでしまいました。晴賢は、義隆に仕えていた武将です。4年ご、元就は晴賢を討つ兵をあげました。これが厳島(広島県)の戦いです。このとき58歳の元就は、あらしの夜、わずか3000の兵で、せまい厳島へさそいだしたおよそ2万の敵を討ち、晴賢を自害させてしまいました。

元就は、こうして周防を手に入れ、さらに備中(岡山県)備後(広島県)にも兵をだし、69歳のときには、4年にもわたる戦いののち尼子氏を討ち滅ぼして、ついに中国地方7か国をおさめる戦国大名になりました。

「1本の矢はかんたんに折れる。しかし3本たばねた矢は、なかなか折れるものではない。おまえたち3人もひとつになれ。兄弟が力をあわせれば、毛利家が滅びることはない」

これは、元就が、自分の死が近づいたとき、家をつがせる隆元、それに元春、隆景の3人の子をよびよせ、3本の矢をしめして語ったと伝えられる話です。しかし、たとえこの話が伝説でも、元就が、毛利家が栄えるために、一族のものみんなに強い団結をさとしつづけたことは事実のようです。

元就は、74歳で亡くなるまでに220回をこえる合戦をしたといわれ、ほとんど戦いに明け暮れる生涯でした。ところが、和歌をよみ、連歌もつくりました。歌集さえ残しています。元就がたった一代で大きな大名になることができたのは、心に、歌を愛するほどのゆとりをもっていたからかもしれません。


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