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(24)

千利休(1522ー1591)

千利休が、天下統一をなしとげた豊臣秀吉の命令で腹を切ったのは、1591年2月28日のことです。ごうまんな権力をどこまでもおし通そうとする秀吉と、たとえ命をおとしても、誇り高い芸術家として茶の湯を守ろうとした利休との闘いは、こうして利休の死で終わりをつげました。利休は69歳でした。

利休の父の田中与兵衛は、和泉国(大阪府)の堺で倉庫業や魚問屋をいとなみ、屋号を千と名のっていました。

そのころの堺は貿易港として栄え、商人たちのあいだでは茶の湯がさかんでした。本名を与四郎といった利休も、家業を手伝うかたわら、茶の湯に心ひかれながら育ちました。

利休は、10数歳の少年時代に、すでに北向道陳という先生から茶の湯を学んだといわれます。そして18歳のころには、名高い武野紹鴎のもとへ弟子入りして、奥深い茶の湯の作法と心を少しずつきわめていきました。

紹鴎の茶は「わび茶」とよばれ、かざりけのないことと、落ちついたさびしさのなかの深い味わいを、たいせつにするものでした。利休は、さらにその中に禅の世界をとり入れることを考え、京都の大徳寺に入って禅の修行にはげみました。このとき髪をそり、与四郎の名を宗易とあらためています。

50歳をすぎたころ、利休は、茶の湯を教える茶頭として織田信長に仕え、信長の死ごは、豊臣秀吉の茶頭となりました。そして天下統一へ突き進む秀吉に、まるで影のようにつきそい、戦場に茶の湯の席をもうけて、秀吉や大名たちをねぎらうことも、めずらしくありませんでした。

1585年、秀吉が宮中で正親町天皇に茶を献じたとき、利休は、その茶会をりっぱにとりしきって晴れの舞台をかざり、天下一の茶の湯の宗匠とたたえられるようになりました。こののち、大名、武士、貴族、僧、町人たちが先を争って、利休のもとへ弟子入りしたと伝えられています。

ところが、この天下一が、最後にはわざわいのもとになってしまいます。秀吉のそば近くに仕えているうちに、いつのまにか政治さえ動かすほどの力をもち、それが、天下をとった自信にあふれる秀吉に、利休をにくむ心をめばえさせたのです。

腹を切ったときの利休のすがたは、どんな武士よりもりっぱだったといわれています。利休が、静かに死に立ちむかうことができたのは、茶の湯をとおして、芸術家として大成していたからです。利休によって芸術として高められた茶の湯は、そのご、日本人の生活文化として、ますます栄えていきました。


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