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(24)

上杉謙信(1530ー1578)

1561年9月9日の夜のことです。妻女山(長野県)に陣をしいて敵のようすを見つめていた上杉謙信は、声をおし殺して家来に命じました。敵は武田信玄です。

「信玄のやつめ、夜明けとともに討ってくるにちがいない。よし、裏をかいてやれ。それっ、かがり火をもっとたけ!」

かがり火を2倍、3倍にふやすと、上杉軍は静かに山をくだりました。山の上に兵が集まっていると見せかけて千曲川を渡り、夜明けとともに、信玄の陣におそいかかる作戦です。

東の空が白みはじめたときは、武田軍は目の前です。やがて合図とともに敵陣へなだれこみました。ふいをおそわれた武田軍は、次つぎにくずれてゆきます。川中島での4度めの大きな戦いでした。

この戦いで敵の本陣におどりこんだ謙信は、馬上から信玄に切りかかり、それを軍配でうけとめた信玄に傷を負わせたと伝えられています。好敵手、謙信と信玄の一騎討ちです。

生涯を「戦場こそ生きがいだ」と心に決めて生きた上杉謙信は、越後(新潟県)の春日山城主長尾為景の次男として生まれました。父の死ご、長尾家をついだのは兄の晴景でした。ところが謙信は、意見があわなくなった晴景と争い、この兄を隠居させて、自分が城主になりました。18歳でした。

2年ご、姓を上杉と改めました。守護の上杉定実が、謙信に上杉家をついでほしいと遺言して死んだからです。

「戦場こそ生きがい」の生涯は、22歳のときに始まりました。北条氏に追われた関東管領上杉憲政を助けることから起こり、そのご17年もつづいた、北条氏との戦いです。謙信は、越後を守りながら軍を関東へ進め、小田原城を攻めました。

また、その間に、越中(富山県)における一向宗信徒の反乱にも兵をだしました。武田信玄との11年間5回にわたる川中島での戦いも、北条氏とにらみあいをつづけていたあいだの戦です。信玄との戦いは、けっきょく勝負がつきませんでした。

謙信は、戦のじょうずな武将でした。戦場で「毘」の文字が書かれた旗を見ると、敵は、ただそれだけでおそれをなしたといわれています。また、情深く正義感の強い武将だったともいわれ、戦場で塩がなくて困っている敵の信玄に、塩をおくったという有名な話が伝わっています。

謙信は、信玄が亡くなって5年ごに病気でたおれ、48歳で亡くなりました。織田信長を討つ準備を進めていた最中のことでした。戦国武将謙信の夢も、天下を取ることだったのです。


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