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(24)

狩野永徳(1543ー1590)

ふすま、障子、びょうぶ、壁などにえがかれた絵を、障壁画といいます。織田信長が天下取りの夢を果たしかけた1575年から、豊臣秀吉が死んで徳川家康が天下を統一する1600年までの安土桃山時代は、この障壁画がもっとも栄えた時代です。

信長や秀吉は、自分の力をしめすために城や寺を盛んに建て、一流の絵師に、障壁画の腕をふるわせました。狩野永徳は、このころを代表する絵師です。

永徳は、日本画で有名な狩野派を受けついできた家に生まれました。父の松栄も、祖父の元信も、すぐれた絵師でした。とくに、狩野派のきそをきずいた元信は、仕事にたいへんきびしく、仕事中は、たとえ大名がたずねてきても「絵師が筆をとっているときは、武士が真剣勝負をしているときと同じだ」と、応待にも出なかったという話が残っているほどです。

永徳は、幼年時代から、このきびしい祖父の教えをうけ、16歳のときに祖父を失ったころには、すでに狩野派の絵師として世に知られていました。そして20歳をすぎると、貴族の家や寺院の障壁画に、父松栄をしのぐ筆をふるうようになりました。

33歳のとき、永徳の名を天下一にする機会がおとずれました。信長がきずいた安土城の5層7重の天守閣に、障壁画をえがくことを命じられたのです。永徳は、金箔を張りつめた大障壁に力づよい筆を走らせ、信長に「これこそ天下にふたつとないものじゃ」と、うならせました。

信長が本能寺で明智光秀に殺されてからは、秀吉に重く用いられ、大坂城や聚楽第の障壁も、永徳の筆でかざりました。また、大きな屋敷を建てた大名たちにもまねかれて、数おおくの絵をえがきました。壁やふすまなどをかざった松、梅、人物などは、実物に近いほどの大きさのものもあり、その雄大さや迫力は、戦乱の世に生きる武将たちの心をとらえてはなしませんでした。眼光のするどい唐獅子が岩のあいだをのし歩く『唐獅子図屏風』などは、おそろしいほどの力にあふれています。

しかし、この『唐獅子図屏風』のほか、織田信長が上杉謙信におくったとされる『洛中洛外図屏風』、京都の大徳寺聚光院の『山水花鳥図』などをのぞくと、永徳の絵とはっきりしているものは、ほんのわずかしか残っていません。おおくは、武士の争いで焼け失せてしまったとみられています。

永徳は、父よりも2年早く、47歳という若さで世を去りました。このとき絵師からも武士からも、その早い死が惜しまれたということです。まさに天才的な日本画家でした。


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