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(24)

角倉了以(1554ー1614)

「おうーい。角倉船が、はいるぞぉ!」

見ると、沖あいから、帆をふくらませた大船が、こちらへむかって入ってきます。港は、商人と角倉船を見物しようとする人たちでにぎわっていました。

1592年、海外貿易で富を集めようと考えた豊臣秀吉は、京都、長崎、堺などの大商人たちに、朱印状をあたえました。朱印状というのは、外国と貿易をしてもよいという許可証です。朱印状をもらった了以の船は、おもに安南国(ベトナム)と貿易を始めました。

了以は、明(中国)に渡ったことのある名高い医者の吉田宗桂の子として、1554年に京都に生まれました。医者のほかに土倉業(金融業)もいとなむ豊かな家でした。

戦いにあけくれる戦国時代の世の中でしたが、了以の生まれる10年ほど前には、ポルトガル人によって鉄砲が日本にもたらされ、外国との貿易が活発になり始めたときでもありました。貿易に興味をもった了以は、医者のあとをつぐのは弟にゆずって、自分は商人になるこころざしを立てました。

京都の清水寺に、了以の安南国へ航海した船が、ぶじに帰ってきたことを感謝しておさめた絵馬が残っています。それを見ると、長さ約36メートル、幅約16メートルで397人乗りという大きな船でした。

この船に、銀貨をはじめ、銅、いおう、しょうのう、家具などを積みこんで出航し、帰りには、生糸、絹織物、綿織物、香木、砂糖などを日本に運んできました。これらの品物で、了以は、たいへんな利益を得ることができました。
 
ところが、50歳を過ぎると、貿易のほうは息子の素庵にまかせて、河川開発にのりだしました。1606年、徳川幕府のゆるしを受けて、大堰川(京都の桂川・保津川の上流)の工事を手がけました。大石をとりのぞき、浅瀬を掘って、船が自由に通れるような水路をつくったのです。完成したのちは、この水路を使って、米や塩、木材などが運べるようになり、やすく物が手に入るようになりました。

1607年には、今度は幕府の命令で、富士川の工事をおこない、そのご、京都の賀茂川の水をふたつにわけて、二条から伏見に通じる運河をつくりました。これが高瀬川です。

了以は、1614年、60歳で世を去りましたが、息子の素庵が貿易とともに河川開発の事業もひきうけ、その子厳昭も貿易をついで、3代にわたって貿易業がつづけられました。


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