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(24)

本阿弥光悦(1558ー1637)

本阿弥光悦、近衛信尹、松花堂昭乗。江戸時代の初めに書道の名人だったこの3人を「寛永の三筆」とよんでいます。

あるとき、信尹が光悦にたずねました。

「いま、天下の書道の名人といえば、だれであろうか」

すると光悦は、まず自分の手の親指を折ってから答えました。

「つぎは近衛さま、そのつぎは八幡の坊の昭乗どのでしょう」

「なに、すると1番はだれだ」

「はい、それは、わたくしでございます」

これを聞いた信尹は、自分は2番めといわれても、光悦のどうどうとしたことばに、おこることもできませんでした。

これは、光悦が人にへつらわない、いかにも芸術家らしい人間であったことを伝える話です。

本阿弥光悦は、豊臣秀吉の時代から江戸時代の初めにかけての芸術家です。1558年に、京都で何代も刀の鑑定をつづけてきた名家に生まれ、刀の美を学びながら成長しました。

しかし、光悦は、ただ刀の品定めをするだけでは、おさまりませんでした。10歳のころから約30年、織田信長と豊臣秀吉の力で、はなやかな安土桃山文化が栄えた時代に生きて、しだいに芸術家の道へ入っていったのです。

それも、ひとつやふたつの芸術を学んだのではありません。書道のかたわら絵もかきました。とくに、すずり箱などの漆器に、金、銀、銅、錫の粉末や顔料とよばれる絵のぐでかく蒔絵では、青貝をちりばめる方法を考えだして、光悦蒔絵とよばれるほどのものを完成させました。

道を学ぶうちに、焼きものの深い美しさにひかれ、名器といわれる茶わんも作りました。また、石を並べ池を掘って、名園とたたえられる庭も作り、能を愛して能面も彫りました。

さらに、学問をたいせつにした光悦は、自分が字を書き俵屋宗達が絵をかき、ふたりで力を合わせて、歌集や『方丈記』『徒然草』などの古い名作を出版しました。

光悦が手をのばした芸術の広さは、おどろくばかりです。しかも、作られたものは、どれも歴史に残っています。

1615年、57歳のとき、光悦は徳川家康から京都の北の鷹峰に土地をあたえられ、この地におおくの芸術家たちを集めて芸術村を作りました。そして、自分は書を書き、茶わんを焼き、茶の湯を楽しみ、1637年に79歳で芸術家の生涯を終えました。

年をとってからの光悦は、持っていた名器や名作は人にあたえ、自分はそまつな道具で、気ままに暮らしたということです。


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