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(24)

石田三成(1560ー1600)

大きな茶わんで、3ばいめの茶をゆっくり飲み終えた豊臣秀吉は、たいへん満足そうに言いました。

「なかなかの手並みじゃ。それぞれに茶も違ったようじゃが」

このころ、すっかり茶の湯にこっていた秀吉は、自信をもっていいました。ところが茶をさしだした小僧は、きっぱりと答えました。

「お言葉ですが、ただいまのお茶は、同じものでございます」

小僧は、はじめの1ぱいは、うんとぬるく量はおおめに、2はいめは少し熱く量はひかえめに、そして3ばいめは、うんと熱くして量はおもいきってへらし、秀吉の舌が熱さになれてくるにしたがい、茶を楽しめるように心をくばったのです。

秀吉は、面目を失いました。しかし席を立つとき、小僧に必ず城にたずねてくるように申しつけました。

近江国(滋賀県)の長浜城主であった秀吉が、タカ狩りでのどがかわき、ふと見つけた山寺で、茶を望んだときの話です。

この小僧こそ、のちの石田三成です。そのころ佐吉といった小僧は、この3ばいの茶の知恵でとりたてられ、生まれつきのかしこさから、秀吉にかわいがられるようになりました。

1585年、秀吉が関白になると、三成は、まだ25歳の若さで、前田玄以、増田長盛らの重臣たちにまじって五奉行のひとりになりました。そして、2年ご、秀吉が全国を統一するために九州で戦ったときには、食糧輸送の大役を果たし、さらに戦いのあとは、荒れた博多の町をたてなおすことなどに力をつくしました。

秀吉が進めた検地でも中心になってはたらき、朝鮮出兵のときにも頭脳をいかして活躍しました。しかし、命をかけて戦う武将たちからは、あまりよく思われていませんでした。ただ強いだけではなく、才知をはたらかせる武将だったからです。35歳で近江佐和山(滋賀県彦根市)の城主になったときは、その才知で、領民のためのすすんだ民政をおこないました。

1598年に秀吉が亡くなると、三成は、勢力をのばしてきた徳川家康と、きゅうそくに仲が悪くなりました。そして2年ご、ついに家康の策略にかかって美濃(岐阜県)に兵をあげました。天下分け目の関ヶ原の戦いです。いつになっても勝敗がつかないかと思われるほどの、激しい戦いでした。

しかし、三成は敗れました。小早川秀秋らに裏切られたからです。捕えられた三成は、首をはねられてしまいました。豊臣家に最後まで忠誠をつくした、信義にあつい武将でした。


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