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(25)

支倉常長(1571−1622)

1613年の秋、仙台の西の月ノ浦港から、1せきの大きな船がヨーロッパへむかって出帆しました。船には、仙台藩主伊達政宗のけらいの支倉常長と、およそ150人の武士や船乗り、それに神父ルイス・ソテロをはじめ日本へきていた40人ほどのスペイン人が乗っていました。

このとき42歳だった常長は、日本とスペインとの貿易を開くために、政宗の使者として、スペイン国王とローマ法王のもとへ旅立ったのです。船は、約3か月かかって太平洋を越え、さらに大西洋を渡って、スペインの港へ入りました。

スペインの首都マドリードにたどりついた常長は、国王に、政宗からの手紙を渡しました。そして、教会で洗礼を受けてキリスト教の信徒となり、やがてローマへ行って、ローマ法王に会いました。法王からは、ローマ市民権と貴族の称号があたえられました。

ところが、ローマ法王からも、スペイン国王からも、日本とスペインとの貿易は、許してもらえませんでした。そればかりか、スペイン政府は、船に乗ってきた日本人を、つめたくあつかうようになってしまいました。

政宗からの手紙には、日本でキリスト教をひろめることを許すかわりに、スペイン国と貿易させてほしい、と書いてあったのですが、ローマ法王もスペイン国王も、江戸幕府はキリスト教を禁じ、日本ではキリスト教信者が苦しめられていることを、知っていたのです。

「使者の役目は果たせなかったが、しかたがない」

常長は、暗い気持ちで船に乗り、マニラに2年ちかくとどまったのち、1620年に日本へ帰ってきました。月ノ浦をでてから7年の歳月がたっていました。

常長の苦労は、なにもなりませんでした。そのうえ、7年ぶりの日本は、キリスト教のとりしまりが、さらにきびしくなり、洗礼を受けてキリシタンになってもどってきた常長は、あわれにも政宗から見捨てられてしまいました。そして、やがて病にたおれ、日本へ帰ってきて2年めに、51歳の生涯をひっそりと閉じてしまいました。

支倉常長は、1571年に生まれ、少年のころから仙台藩につかえた、まじめな武士でした。21歳のとき、朝鮮との戦いでてがらをたてたこともありました。

常長の一生は悲劇でした。しかし、荒海を越えて見知らぬ外国へのり込んだ勇気は、いまも高くたたえられています。


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