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(25)

出雲の阿国(生没年不明)

天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった1600年ころのことです。賀茂川(京都府)のほとりの四条河原で、かね、太鼓を打ち鳴らし、念仏をとなえながら踊る一座が、人気を集めていました。

人気のまとになっているのは、すがたが美しく、声がきれいで踊りのじょうずな、出雲の阿国とよばれた女の芸人でした。

武士中心の社会では、女は男よりも身分が低いものとされ、女が人前で舞台に立つことなどありませんでしたから、人びとはよけいに、女芸人がめずらしくてしかたがなかったのです。

阿国は、幼いころから、旅芸人として踊っていたといわれます。また、出雲大社(島根県)の巫女として神につかえ、大社を修理する費用を集めるために京都へ踊りにきたとも伝えられています。しかし、はっきりしたことは、わかっていません。

1603年ころ、阿国は、男の衣装を身にまとい、腰には刀をさし、武士が茶屋女とたわむれる舞台を演じました。武家社会のようすを、おもしろおかしく皮肉った軽い劇です。また、狂言師を相手に、流行していた歌や遊び、話題になっていた事がらなどをたくみにとり入れて、歌ったり踊ったりしてみせました。

いつのまにか、阿国一座の舞台は、かぶき踊りとよばれるようになりました。たいへん風変わりな踊りだったからでしょう。かぶきというのは、奇妙なふるまいや、すがたをさす言葉でした。世の中からはみだした人間を、かぶき者とよんだほどです。

人びとの目には、阿国の芸が、それまでの芸能の世界からはみだしたものにうつったわけです。しかし、男のすがたをした阿国の踊りは、奇妙であればあるほど評判になり、遊女を中心に、まねをする女たちが次つぎに現われました。そして、その芸を女かぶきとよぶようになりました。

やがて東へ向かった阿国は、江戸でも、大評判になりました。仮面をつけて静かに動くことを主にした能楽の舞いに対して、仮面をつけずに、とんだりはねたりする踊りが、江戸のはなやいだふんいきに、とけ込んでいったからです。1607年には、幕府の第2代将軍徳川秀忠の前でも踊ったと伝えられています。

阿国のかぶき踊りは、おおくの女かぶきの一座によって全国へ広まっていきました。しかし、風紀の乱れを心配した幕府は、1629年に、女の芸人が人びとの前で舞台に立つことを禁止してしまいました。その後、かぶきは歌舞伎と字が当てられ、男だけが演じる時代をむかえます。

阿国は、こうして、歌舞伎のもとをきずいた芸能者として歴史に名を残しました。でも晩年のことは、やはりわかりません。


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