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(25)

宮本武蔵(1584?−1645)

宮本武蔵は、江戸時代初めのころの剣豪です。生まれは美作国(岡山県)とも、播磨国(兵庫県)ともいわれています。父、新免無二斎は、田舎で道場を開く武芸者でした。

のちに郷里宮本村の名をとって宮本と名のるようになった武蔵は、幼いときから父に剣を習い、早くも12歳のときには新当流の有馬喜兵衛と試合をして打ち負かすほどの腕になりました。やがて武者修行をめざしたのか、あてもなく村をでました。

1600年、美濃国(岐阜県)で関ヶ原の戦いが起こりました。西軍の兵のなかに、足軽すがたの武蔵がいました。てがらをたてて、武士として出世することを夢見たのです。でも、石田三成の西軍は、徳川家康の東軍に負けてしまいました。

武士になりそこなった武蔵は、京都へ行きました。都で、剣の道で名をあげようと考えたのかもしれません。20歳でした。

京都へ入ったその年のうちに、武蔵の名は、大花火を打ちあげたように、都じゅうに広まりました。京都一の道場をかまえていた吉岡家に試合を申しこみ、その一族を、次つぎに打ちたおしてしまったからです。

そのごの武蔵は諸国をめぐり、槍術の宝蔵院、棒術の夢想権之助、くさり鎌使いの宍戸典膳などの達人と立ちあって、ことごとく勝ち、1612年には、九州の舟島(巌流島)で佐々木小次郎を、舟のかいで作った木刀で一刀のもとに打ちすえました。巌流島の戦いに勝ったときは28歳でしたが、武蔵は、このころまでに、およそ60回も他流試合をおこない、しかも、たったの一度も敗れたことがなかったということです。

武蔵は、剣法にすぐれていました。しかし、どんな試合にも勝つことができたのは「わたしが強かったのではなく、ほかの武芸者が兵法を知らなかったからだ」といっています。武蔵には、わざと約束の時間におくれて、相手を怒らせて勝った試合が、なん度もありました。これも、兵法のひとつだったのです。

30歳をすぎた武蔵は、他流試合をやめて、武士として仕官することを考え、江戸幕府にも、尾張藩(愛知県)や黒田藩(福岡県)にもはたらきかけました。でも、召しかかえられるときの禄高などで話がまとまらず、けっきょくは肥後藩(熊本県)にまねかれたのち、熊本城内で亡くなりました。62歳でした。

武蔵は、剣法だけではなく、絵、彫刻、書などにもすぐれていました。また肥後藩で書き残した『五輪書』は、説かれている兵法のするどさにあわせて、その文章のたくみさがたたえられています。


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