オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(25)

山田長政(?−1630)

インドシナ半島のほぼ中央部にあるタイ王国は、1938年までの国名をシャムとよんでいました。山田長政は、そのシャムの国で活躍した、日本人町の指導者です。

長政は、豊臣秀吉が天下を統一していた時代に、駿河国(静岡県)で生まれました。はっきりした生年はわかりません。沼津藩につかえていたころは、藩主大久保忠佐のかごかきをしていたと伝えられています。

秀吉の時代から江戸時代の初めにかけて、海外へ出て貿易をおこなうために必要な朱印状をもって、南の国へ渡る、朱印船とよばれる船がありました。そして、この船でわたった商人や、キリスト教を信じたために日本を追われた人びとを中心にして、南の各地にいくつもの日本人町が生まれました。

長政が駿河の港から船に乗り、台湾を通ってシャムの国へついたのは、1612年のころです。このとき何歳だったか正確にはわかりませんが、20歳を少しすぎていたと思われます。

シャムの首都アユタヤの日本人町におちついた長政は、ソンタム国王を助けてとなりの国ぐにと戦っているうちに、しだいにみとめられ、1620年には日本人町の頭領になりました。国王から、シャムの国の高い官位もさずけられました。

「日本とシャムが親しくなるために、力をつくそう」

戦いがしずまると、シャムの外交を助け、1621年に国王が日本へ使節をはけんしたときには、江戸幕府へ手紙を送り、使節をあたたかく迎えてくれるようにたのみました。

また、日本から貿易にやってくる朱印船のためには、鹿皮や鮫皮など、シャムでとれるめずらしいものを集めてやりました。朱印船をまたずに、自分の貿易船を日本へ送りこんだこともありました。長政は、遠い南の国で暮らすようになっても、心のなかでは、祖国の日本を忘れることはできなかったのです。

1628年、国王ソンタムが死にました。すると、つぎの王位をねらって王の弟と王子のあいだで争いが起こり、長政は、日本人800人とシャム軍2万人をひきいて、王子に味方しました。

長政の軍が戦いに勝ち、王子が王になりました。ところが、長政はそれから2年のち、新しい王をほろぼして自分が位についたソンタムのいとこのオヤ・カラホムにだまされ、殺されてしまいました。また、アユタヤの日本人町も焼きはらわれてしまいました。このとき長政は40歳くらいでした。

長政は、海外へ勇ましくとび立っていった英雄でした。しかし日本は、長政の死からおよそ10年のちに鎖国してしまいました。


もどる
すすむ