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(25)

狩野探幽(1602−1674)

15世紀の室町時代の中ごろから19世紀の明治時代の初めまで、およそ400年にわたってつづいた日本画に、狩野派とよばれたものがありました。狩野正信という人が、中国から伝わってきた、墨でえがく漢画をもとにしておこした日本画です。

1602年に京都で生まれた狩野探幽は、その狩野派の、江戸時代の初めのころの画家です。2歳になったばかりのころから、泣きだした探幽に絵筆をにぎらせると、すぐに笑ったと伝えられるほど、早くから絵の天才とさわがれました。

12歳のとき、将軍徳川秀忠の前で、いまにも目をさましてむっくりと起きあがりそうな眠りねこの絵をかいて、将軍をおどろかせました。また、14歳で、江戸城内の天井にまるで生きているような龍をえがいて、幕府の武士たちを、あっといわせ、つぎの年には、幕府の仕事をする御用絵師にとりたてられました。そして、まだわずか15歳というのに、江戸の鍛冶橋に大きな屋敷もあたえられ、ふたりの弟と仲よくしながら、江戸と上方(関西)のあいだを盛んに往復して、活躍するようになりました。

探幽が、とくにうちこんだのは、江戸城、二条城、大坂城、名古屋城、京都御所、日光東照宮、京都南禅寺などの障壁画でした。大きなへやの壁、ふすま、板戸、それに、びょうぶや、つい立てを、松、竹、花、鳥、虎などで、みごとに飾りあげていったのです。狩野派がえがいたものでなければ日本画ではない、といわれるまでになり、貴族や大名たちも屋敷を造りかえては、頭をさげて探幽をむかえました。

障壁画のほか、徳川家康の一生をえがいた『東照宮縁起絵巻』などの絵巻物にもうでをふるい、おしもおされもせぬ大家になった探幽は、34歳のときに髪をそって出家しました。それまでのほんとうの名は守信といい、探幽と名のるようになったのは、このときからです。

探幽は、偉大な画家の地位をきずき、おおくの弟子をかかえ、大名をしのぐほどの金持ちにもなりました。しかし、芸術家としての探幽は、けっして、おごりたかぶることはありませんでした。年をとってからも、外へでるときは紙をふところへ入れ、目についたものを写生して、いつも学ぶことを忘れなかったということです。

60歳のとき朝廷から法印という高い僧の位をさずけられた探幽は、それから12年ののち亡くなりました。そして、狩野派の日本画は、弟や弟子たちに大きくひきつがれていきました。


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