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(25)

徳川家光(1604−1651)

徳川家光は、江戸幕府の第3代将軍です。1604年に、2代将軍秀忠の次男として生まれましたが、兄は2年まえに亡くなっていたので、長男のように育てられました。とくに祖父の家康から、将軍家のあとつぎとして深くかわいがられました。

ところが、2年のちに弟の国松が生まれると、両親は、無口でおとなしい家光よりも、きびんで活発な国松をかわいがるようになりました。そして、およそ10年のちに、家康が「世つぎは家光にせよ」と秀忠にいいわたすまでのあいだは、この世つぎをめぐって兄弟でにらみあわねばなりませんでした。

1623年、秀忠はいん居して大御所となり、19歳の家光が天下を治める将軍の位につきました。

しかし、将軍にはなっても、それからの10年間は、将軍らしい権力をふるうことは、なにひとつできませんでした。1632年に大御所が亡くなるまでは、大御所をとりまく幕府最高職の老中たちが、すべての政治をとりしきったからです。

父の死ご、28歳の家光は、初めて将軍として活躍するようになり、まず、老中から奉行まで幕府につかえる武士たちの位や仕事をととのえ、強い政治をおし進めるための幕府の体制を固めました。

つぎに、大名をしたがわせるために家康が定めていた「武家諸法度」の力を強めて、全国の大名をかわるがわる江戸によびつける参勤交代の制度を新しく作り、大名たちをさらにきびしくとりしまるようにしました。

いっぽう、豊臣秀吉から徳川家康へとひきつがれてきたキリスト教禁制にも目を光らせ、外国へ行っている日本人が日本へ帰ってくることも、日本の船が外国へ行くことも、ポルトガル船が日本の港へ入ることも、長崎のオランダ人が出島の外へ出歩くことも、すべて禁止してしまいました。外国といっさいまじわらない日本の鎖国を開始したのです。

生涯、家康を心から尊敬していた家光は、1636年には、ばく大なお金をつぎこんで日光東照宮を建て、家康をここにまつりました。そして、46歳で亡くなったときには遺言で、自分のなきがらも、この東照宮にほうむらせました。

家光は、農民たちからは年貢をきびしく取りたてながら、自分はぜいたくな暮らしをして、やがては幕府の財政を苦しめるようになりました。しかし、祖父家康と父秀忠がきずいた幕府を、さらにしっかりしたものにした功績は、のちの将軍たちにたたえられました。


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