オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(26)

中江藤樹(1608-1648)

人を愛し敬う心をたいせつにして、のちに近江聖人とよばれるようになった中江藤樹は、江戸幕府が開かれてから5年ごの1608年に、近江国(滋賀県)で生まれました。

父は農民でしたが、藤樹は8歳で、武士の祖父のもとへ養子としてひきとられました。そして、6年ののちに祖父が亡くなると、祖父にかわって、伊予(愛媛県)の大洲藩につかえるようになりました。

藤樹は、子どものころから学問がすきでした。10歳をすぎたころから、中国の孔子の教えを説いた儒学を学び、人間が守らなければならない道を、深く考えるようになりました。学問の力がみとめられて、わずか18歳で村の政治や裁判をつかさどる郡奉行にとりたてられたとき、藤樹の前にでたものは、だれもうそがつけなかったということです。

ところが、1634年、26歳の藤樹は、大洲藩をしりぞいて、生まれ故郷の近江へ帰ってしまいました。

父はすでに亡くなり、近江には母がいました。藤樹は、母へ孝行をつくすために近江へ帰りたいという願いを、藩へだしました。でも、藩は、藤樹の才能を惜しんで、その願いを許しませんでした。そこで、ひそかに藩をぬけだして、母のもとへ帰ってしまったのです。しかし、ほんとうは、このとき藤樹は、学問をあまり重くみない武士の生活が、いやになっていたのだろうといわれています。

武士を捨てた藤樹は、家で酒を売って母をやしないながら、塾を開いて、村の人びとに学問を教え始めました。

藤樹は、だれにでもしんせつに、人間の正しい生きかたを説き聞かせました。そして、自分は、ちつじょ正しい社会をきずくための人の道を教える朱子学を学んだのち「人の道は、知るだけではいけない。正しいことを知ったら、すぐ実行しなければいけない」と説く陽明学へ進み、やがては日本の陽明学をうちたてました。

藤樹の名は広まり、たくさんの弟子が集まりました。のちに陽明学の大家になった熊沢蕃山も、そのひとりでした。蕃山が弟子入りにきたとき、藤樹は、自分は田舎ものの学者にすぎないことを告げて、ことわりました。でも、蕃山は、ひと晩じゅう外にすわったまま立ち去ろうとせず、ついに藤樹は、その熱心さに心をうたれて入門を許したということです。

藤樹は、『翁問答』『鑑草』などおおくの本を残して、40歳で亡くなりました。弟子をたいせつにした教育者でした。


もどる
すすむ