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(26)

河村瑞賢(1618-1699)

江戸時代の初めに、才智と努力で大実業家になった河村瑞賢は、1618年に、伊勢国(三重県)の東宮村で生まれました。父母は、朝から晩まで泥まみれではたらく、貧しい農民でした。

瑞賢は、12歳のとき父のいいつけで、自分の力で身をたてるために江戸へでて、荷車引きになりました。

しかし、20歳をすぎても一人前になることができず、こんどは上方(関西)へ行く決心をしました。ところが、小田原まできたとき、旅の僧に「江戸でだめだったから上方へ行くという甘い考えはどうかな?」 と、さとされ、西へむかうのをやめました。そして、品川までもどってきたときのことです。

瑞賢は、海べに浮かんでいる、たくさんのナスやウリを見て思わず叫びました。

「お盆で仏さまに供えてあったものだな。そうだ、これを集めて、塩づけのつけ物にして売ればいいじゃないか」

つけ物売りは成功しました。そして、それからの瑞賢は、一歩一歩、大商人への階段を登り始めました。

1657年、江戸の町に、明暦の大火とよばれる、大火事が起こりました。するとこのとき、材木商人をしていた瑞賢は、自分の家も焼けたのもかまわずに木曾へ行き、たくさんの材木を買い集めました。焼け野原の江戸で材木はとぶように売れ、瑞賢は大金持ちになったばかりか、幕府の御用商人になることができました。

1670年、52歳の瑞賢は、幕府から、奥羽(東北地方)でとれた米を、安全に、しかも早く江戸にはこぶ仕事を命じられました。ほかの商人がはこぶと、船のそう難や、とちゅうの事故がおおく、それに月日がかかりすぎたからです。

瑞賢は、安全な航路や、港や、天候をしらべました。しっかりした船を作り、うでのよい船乗りも、集めました。そして、太平洋側の東まわりと日本海側の西まわりの、ふたつの航路で、ぶじに、山のような米をはこんでみせました。よく準備をして、よく考えた瑞賢の仕事は、たった1回のそう難もなく、大成功でした。

大商人になった瑞賢は、そののちは川や港の工事、鉱山の開発などにも力をつくして、ついには幕府から旗本にとりたてられ、1699年に、81歳でこの世を去りました。

商人として、また事業家として生きた瑞賢は、いっぽうでは学問をこのみ、たくわえたお金で、おおくの学者のせわをしました。朱子学者新井白石も、せわを受けたひとりでした。


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