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(26)

天草四郎(1623?-1638)

江戸幕府が開かれて34年めの1637年、島原半島(長崎)と天草(熊本県)の農民が、キリスト教信者といっしょに反乱を起こしました。約5か月、はげしい戦いがつづいた島原の乱です。

天草四郎は、このときの指導者です。でも、武将ではありません。キリスト教を信仰した、まだ16歳の少年です。

四郎の父は、もとは、この土地をおさめていた武将小西行長の家来でしたが、行長が1600年の関ヶ原の戦いに敗れて殺されてからは浪人となり、天草で農業をつづけていました。四郎がキリスト教を信仰するようになったのは、行長も、父も、キリスト教の熱心な信者だったからです。

しかし、キリスト教の信仰は、四郎の生まれたころから、幕府の命令できびしくとりしまられるようになっていました。

いっぽう、天草地方には1634年ころから農作物の不作がつづき、農民たちは口に入れるものもないほど、追いつめられていました。でも、島原城主松倉重政は、きびしい年貢の取りたてを決してゆるめてはくれません。おさめきれない年貢のかわりに嫁を人質にとられ、その嫁を殺された農民もいました。

怒りを爆発させた農民たちが立ちあがりました。キリスト教の弾圧に苦しんでいた人びとも、立ちあがりました。これが乱の起こりです。四郎も、人びとの先頭に立った父や浪人といっしょに武器を取り、島原半島の原城にたてこもりました。

「神は、弱く貧しいものの味方になってくださるはずだ」

四郎は、神を信じました。そのうえ、四郎には神のような力がそなわっているという、うわさが広がっていたため、人びとから「この世を救うために天からつかわされた神の使者」に、まつりあげられてしまいました。このとき「神の使者」四郎の胸のうちがどんなものだったのか、それはわかりません。しかし人びとは、四郎のもとに、ひとつにまとまりました。

年が明けて1638年の正月、乱を静めるために幕府の命をうけた12万以上の大軍に、原城をとりかこまれました。幕府軍は、原城のたべものや弾薬がなくなるのを待とうというのです。

四郎は、城の中で、神に祈りをささげ、農民たちに神の教えを説きました。そして、2月の終わり、敵が城内へ攻めこんでくると最後まで戦い、農民たちといっしょに討ち死にしました。死後、首を落とされ、さらに反乱にくわわった人たちも皆殺しにされ、神の使いの役を果たすことはできませんでした。

この乱のあと、幕府のキリスト教禁止は、ますますきびしくなりました。四郎が原城に立てていた旗がいまも残っています。


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