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徳川光圀(1628-1700)

水戸黄門の名でしたしまれている徳川光圀は、徳川家康の孫にあたり、第2代の水戸藩主です。

1628年に、初代の水戸藩主徳川頼房の三男として生まれましたが、6歳のときには、江戸幕府3代将軍徳川家光の命令で、兄をさしおいて父のあとをつぐことが決まっていました。

少年時代の光圀は、やがては藩主になるというのに、学問をきらって、いつもわがまま勝手にふるまい、そばにつかえた家来たちを、たいへん困らせました。

しかし、17歳のときに中国の歴史書『史記』を読んでからは、急に、学問にはげむようになりました。伯夷、叔斉という兄弟が、おたがいに父のあとをつぐのをゆずりあって美しく生きた話に胸をうたれ、自分のおこないを反省して、心を入れかえたのだといわれています。

1661年に33歳で藩主になった光圀は、学問と武芸を重んじて武士たちの心がまえを正させながら、領民たちのために、思いやりのある政治を進めていきました。

とくに、貧しい人びとへやさしい目を向け、年貢に困っている農民、身寄りのない老人、孤児、医者にかかれない病人たちへ、救いの手をさしのべました。また、領内をまわって、代官の不正をいましめ、苦しめられている町人や農民を助けました。

そのころ、将軍徳川綱吉がだした「生類憐みの令」で、人間の命よりも犬の命のほうがたいせつにされていましたが、光圀は、この悪法にも反対して、ばかげた政治から人びとを助けようとしました。光圀が、自分で犬を殺して、その皮を綱吉へ送りとどけたこともあったということです。

いっぽう『史記』を読んで、国の歴史のたいせつさを深く考えるようになっていた光圀は、29歳のときから生涯をかけて、おおくの学者とともに約2000年の日本の歴史をまとめる大事業にとりくみました。

この大事業は、光圀1代では、とても果たせませんでした。しかし、光圀の死ごも長くひきつがれ、明治に入った1906年に397巻の『大日本史』として完成されました。

光圀は、62歳で藩主をしりぞいて、水戸のはずれの西山荘にいん居しました。そして、そのご亡くなるまでのおよそ10年間を、村びとたちとまじわりながら、のどかにすごしました。

藩主時代の心やさしい政治と、西山荘での、いかにもごいん居らしい生活がもとになって、のちに、おもしろおかしい『水戸黄門漫遊記』が作りあげられたのです。


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