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(26)

貝原益軒(1630-1714)

貝原益軒は、筑前国(福岡県)の福岡城のなかで生まれました。父が、藩医として、黒田侯に仕えていたからです。

益軒は、幼いときから、からだはあまりじょうぶではありませんでしたが、才能には、めぐまれていました。少年のころのことに、こんな話が伝わっています。

益軒が、ある日兄の本をだまって借りて読んでいたときのことです。その本をさがしていた兄が益軒をみて、おどろいた顔をしました。『塵劫記』という、たいへんむずかしい数学の本だったからです。益軒にわかるはずはないと思った兄は、本に書かれていることをいくつか質問してみました。すると益軒は、どの問題も、すらすらと解いてしまいました。ところが、このことを知った父は、益軒の才能をよろこぶどころか、世の中で「秀才は、早死にしやすい」といわれていることを考えて、益軒の将来を心配したということです。

益軒は、正式に、先生について学問をしたことはなく、兄の教えや自分の力で、儒学、国文学を学んでいきました。そして18歳のとき、藩主の黒田忠之に仕えました。しかし、数年で、浪人になってしまいました。短気だった忠之の怒りにふれたのだと伝えられています。

およそ7年の浪人生活のあいだに、益軒は、なんども長崎へ行って、医学を学びました。また、そのご、江戸や京都へでてさまざまな学問を身につけ、知識をふやしていきました。

34歳になって筑前へ帰った益軒は、ふたたび、藩にめしかかえられました。父のあとをついで藩医です。しかし、益軒は、医者のしごとよりも、藩の武士や、その子どもたちへの教育に力をつくしました。また、時間を惜しんで筆をにぎり、生涯のうちに、98部247巻もの本を書き著わしました。

そのおおくの本のなかで、もっとも知られているのが『益軒十訓』です。益軒は『君子訓』『家道訓』『養生訓』など10冊の書をとおして、人間の正しい生き方、あたたかい家庭のつくり方、健康な生活のおくり方などを、やさしく説きました。

また、野山を歩き、草、木、鉱物などを調べて博物学書『大和本草』を著わし、旅をかさねて、旅行記や名所案内書も出版しました。北九州をめぐって筑前の風土記も書いています。

益軒は、70歳をすぎても、80歳をこえても、勉強をすることも本を書き進めることもやめませんでした。世の中のことを知れば知るほど、もっと深いこと、もっと広いことが知りたくなったからです。『養生訓』などは、いまも読みつがれています。


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