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(27)

関孝和(?−1708)

江戸時代の初期、和算とよばれる数学の理論を、世界的なレベルまで発展させた関孝和は、1640年ごろに、幕府の旗本の子に生まれました。しかし、孝和の生いたちや、数学の基礎をいつ、どこで、どんな師について学んだのか、ほとんどわかっていません。関家が、孝和野次の代で断絶したため、何の資料も残っていないからです。ただ、6歳のころ、おとなたちがそろばんをしているのを見て、孝和がいったという話があります。

「あの人のやりかたは、ここがまちがってる。こっちの人のやりかたは、ひとけた目がちがっている」

「な、なんだって?」「なるほど、坊やのいうとおりだ!」

この話が事実かどうかは別にして、孝和が幼い時から、計算にすぐれていたことはたしかなようです。吉田光由という人が書いた『塵劫記』という数学の本を読んで、目を開いたともいわれています。

やがて孝和は、甲府の藩主の徳川綱重とその子綱豊に仕えました。そして、綱豊が5代将軍綱吉の養子になって江戸城に入ると、孝和もまた幕府の役人になりました。

当時の日本の数学は、中国から伝わった天元術というやり方でした。算木という細長い板を使って計算をしていたのです。

「算木は場所をとって不便だ。なにかいい方法があるはずだ」

孝和は、考えぬいた末、新しい方法をあみだしました。いろいろな記号をこしらえ、横やたての線を組みあわせて紙の上で計算する方法でした。この方法を深めて到達したのが行列式で、西洋の数学よりも70年も先立っていたといわれます。

また孝和は、円周率を小数点以下10位まで正しく計算して、円周の長さ、円の面積を求める研究などもしました。その研究は、西洋の数学者のだれにも負けないものです。

方程式の研究についても、孝和のレベルは高く、中国数学からヒントを得て、近似法という研究では、孝和と同時代に生きた大数学者ニュートンとほぼ同じレベルまで到達しました。

孝和は、日本の数学を中国の数学からぬけださせ、和算の大きな発展への道をひらくとともに、荒木村英、建部賢弘らのすぐれた弟子を育てたことでも知られています。天文学や暦学にもすぐれた業績をのこし「算聖」とあがめられ、1708年、主君綱豊が6代将軍家宣となる前年に亡くなりました。

しかし、日本人がなしとげたもっとも独創的な業績だった和算も、明治5年の学制改革により、学校教育では教えないことになり、その歴史は完全に絶えてしまいました。


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