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(27)

徳川綱吉(1646−1709)

徳川綱吉は、江戸幕府の第5代の将軍です。1646年に3代将軍家光の4男として生まれ、上野国(群馬県)館林25万石の城主をつとめたのち、34歳で、兄の4代将軍家綱のあとをついで将軍の位につきました。

江戸城へ入った綱吉は、まず、家綱時代に権力をふるっていた大老をしりぞけて、幕府の政治を将軍の手にとりもどし、さらに、心のゆるんでいる大名、旗本、代官たちをきびしくとりしまり、乱れていた幕府をたてなおしました。

 いっぽう、幼いころから儒学を学んできた綱吉は、江戸の上野忍ヶ岡にあった孔子をまつる聖堂を湯島へ移し、そのなかに学問所を開いて、広く学問をしょう励しました。人間の道徳を教える儒学を広めて社会のちつじょを正し、幕府の政治が、だれにもさからわれずにゆきわたることを願ったのです。

将軍が江戸に学問所を開いたことで、大名たちも、各藩ごとに藩校をつくって、武士や、武士の子どもたちの教育に力を入れるようになり、そのごの江戸時代の学問の発展に、大きなえいきょうをあたえました。

綱吉は、このほか、不正代官をとりしまり、また、武士にも町人にも農民にも親孝行をすすめ、将軍の位についた初めのころは、すぐれた政治をおこなう将軍としてたたえられました。

しかし、40歳をすぎたころから、側用人の柳沢吉保らに政治をまかせるようになると、せっかくたてなおした幕府の政治を、ふたたび乱してしまいました。その、失敗した政治の第一にあげられるのが、1687年にうちだした「生類憐みの令」です。

この「生類憐みの令」をだしたのは、儒学を深く学んだ綱吉に生きものをあわれむ心があったからだとも、あとつぎの子をさずけてもらう祈願のためだったとも、いわれています。「たとえ野良犬でも、傷つけたり殺したりしたものは厳罰をあたえ、打ち首にもする」と言いわたしたのですから、たまりません。町の人びとは、綱吉を「犬公方」と呼んでにくむようになってしまいました。そのうえ幕府は、寺院の建造などにおおくの金を使い、金がなくなると質の悪い貨へいをたくさんつくったため、国のけいざいも乱れてしまいました。

ところが、いっぽうで、この綱吉の時代には元禄文化の花が開きました。貴族たちのぜいたくな暮らしが大きな原因になって、上方(関西)や江戸を中心に商業が盛んになり、そのおかげで、俳諧、浄瑠璃、歌舞伎など、町人の文化が栄えたのです。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのも、この時代のことでした。


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