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(27)

尾形光琳(1658−1716)

江戸時代の中期、町人文化が栄えた元禄期を代表する画家尾形光琳は、1658年京都の高級呉服屋として知られる雁金屋の次男に生まれました。当時、家はたいへんな金持ちでしたから、光琳はなに不自由なく育てられました。父は趣味のゆたかな人で、光琳はその感化をうけて、はやくから能を舞い、絵を学びました。しかし、最初から画家になる気はなく、本格的に絵の勉強をはじめたのは、20歳をすぎてからでした。

まず、狩野探幽の弟子の山本素軒に習いましたが、狩野派のかたくるしい画法に満足できず、のびのびした線や色をつかう土佐派の絵にひかれていきました。そのうちに、江戸初期の大画家俵屋宗達の絵を見て深く感動し、その絵を手本に勉強するようになりました。そして、しだいに工夫を加え、装飾的な明るくはなやかな独特の画風を生みだしていきました。

ところが、1697年ごろ、雁金屋の勢いがなくなってきました。大名たちに貸した金がとれなかったり、日ごろのぜいたくが過ぎたからです。光琳はやむなく、絵を売って生活することにしました。やがて、画家としての名声も高まり、1701年には当時画家として最高の名誉である、法橋の位を受けました。また、豪商中村内蔵助の援助を受けてますます活躍しましたが、はでな性格はすこしもなおらず、生活は苦しくなるばかりです。そのうち画家としてのゆきづまりを感じるようになっていきました。

1704年、光琳は江戸(東京)へ出ました。江戸には活気が満ちあふれていると聞いていたからです。しかし、期待はうらぎられました。江戸の文化はあらあらしく、光琳の肌にあいません。おまけに大名づかえの生活にはかなりの束ばくがありました。

「私の生命は、あと10年がせいぜいだ。1日も早く京都へ帰って、気のむくまま、自由に絵筆を遊ばせたい」

1709年、51歳の光琳は、逃げるように江戸を出て、京都へもどりました。そして、数かずの名作を残し58歳で他界しました。

光琳は、生涯に実におおくの絵をかきました。そのなかで最高の名作といわれるのは、草花をあつかった屏風絵です。とくに『紅白梅図屏風』や『燕子花図屏風』は、傑作中の傑作といわれています。蒔絵にも名品をのこし『八橋蒔絵硯箱』が有名です。光琳の画風は、酒井抱一に受けつがれ「光琳派」と呼んで、日本画の大きな流れのひとつに数えられています。家系によって受けついできた狩野派や土佐派に対し、自主的に画風を受けついできた流派です。光琳の弟乾山もすぐれた陶芸家で、元禄時代の芸術家兄弟としても知られています。


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