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(27)

紀伊国屋文左衛門(1665?−1718?)

17世紀から18世紀にかけて、産業がさかんになるにつれて、商業が大きく発展し、大商人といわれる人たちが各地に現われました。紀伊国屋文左衛門も、そのころに活躍した豪商のひとりです。

文左衛門がいつどこで生まれ、どのように育ち、いつ江戸に出てきたのかほとんどわかっていません。しかし、文左衛門の隆盛のきっかけとなったといわれるミカン船の話は有名です。

ある年の暮れ、海の荒れる日がつづいて、紀州から江戸へわたる船がでませんでした。そのため、紀州のミカンは値が下がり、反対に江戸ではどんどん値上がりしてゆきました。

この機会をのがさず、すぐ行動したのが文左衛門です。紀州のミカンをできるだけ安く買い集めると、船いっぱいにつみこみました。そして、大金を出して船のりをやとい、荒れくるう海にのりだしました。命がけで江戸へ着くと、待ちかまえていた商人たちによってミカンの値はつりあげられ、たちまちのうちに売りつくされました。文左衛門は、もうけたお金でこんどは、塩ザケを買いこみました。そして関西に運んで大きな利益をあげたのです。

この話は、事実かどうかわかりませんが、大金を手にした文左衛門は、1687年江戸の八丁堀で材木問屋をはじめました。そのころの江戸は「火事とけんかは江戸の花」といわれたほど火事がおおく、しばしば大火にみまわれました。火事のあとは、焼けた家を建てなおす材木が必要です。ここに目をつけた文左衛門は、大火があると、まだ火が消えないうちに江戸を立って木曾にむかいました。そして、大量の材木を買いしめると、焼け野原となった江戸へ材木の山を送りこんだのです。もちろん材木は、とぶように売れました。

そのご文左衛門は、将軍綱吉のお気に入りの老中柳沢吉保にとりいり、材木御用達となって、幕府の建築用材を一手にひきうける身分になりました。1698年には、上野寛永寺の根本中堂の造営をうけおい、50万両をもうけるなど、巨富をつかんでいったのです。しかし、そのうち文左衛門の浪費がはげしくなり、豆まきの豆のかわりに小粒金をまいたり、遊里吉原や芝居などにお金を湯水のように使うようになりました。

やがて、政治に新井白石が現われ、役人と商人の不正取りひきをきびしく取りしまるようになりました。文左衛門はみるみる落ちぶれ、家屋敷も売りはらい、晩年はまったくみじめなくらしに追いやられ、いつどこで死んだのかもわかっていません。


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