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(27)

大岡忠相(1677−1751)

大岡越前守という奉行が、胸のすくような裁判をして、弱い者をたすける「大岡さばき」の話は、いまでもテレビドラマをはじめ講談、落語、演劇などでしたしまれています。

その大岡越前守は、名を忠相といい、1677年、徳川の旗本の家に生まれましたが、10歳のころ、親るいの大岡忠真の養子となりました。25歳で養父のあとをつぎ、幕府の役人になった忠相は、まじめなうえに有能でしたから、とんとん拍子に昇進していきました。

35歳のとき忠相は、伊勢神宮の事務や、伊勢(三重県)山田でおこった事件の裁判をおこなう山田奉行を命じられました。当時山田では、長い間となりの松坂と境界のことでもめていました。これを正当に裁判すれば、とうぜん山田側の勝ちになるものを、松坂が徳川御三家のひとつである紀州藩の領地であることから、これまでの山田奉行はこの争いをうやむやにしていたのです。そのため、奉行のかわり目ごとに必ず訴しょうがおこっていました。それに対し忠相は、当然のことを当然におこなうという勇気をもって処理しました。忠相の公正な判決は評判になり、それが紀州藩主徳川吉宗の耳にも入りました。

やがて、吉宗が8代将軍にむかえられると、かねてから忠相の人物に感心していた吉宗は、忠相を江戸町奉行につけました。

忠相は、この江戸町奉行を20年近くつとめました。このときの有名な「大岡さばき」の話は、ほとんどが作り話です。しかし、忠相が名裁判官だったことは事実で、人情をよく理解し才知にとんだ公正な裁判をおこなったと思われます。また、司法改革にも力を入れ、連座制といって重い罪をおかした者の親子、兄弟、親るいまで罰せられた制度をゆるめたり、証拠のある重罪のばあいのほかは、ごう問を禁じるなどの改革に重要な役割を演じました。

忠相は、裁判ばかりでなく、将軍吉宗の片うでとなって数かずのりっぱな仕事を残しています。

青木昆陽のサツマイモ栽ばいのきっかけは、忠相がつくったもので、ききんのとき、たいへん役に立ちました。また、江戸の消防のしくみをつくったのも忠相です。「いろは47組」とよばれ、各地域に専門の消防組をおいたり、飛火を防ぐためにあき地をもうけたり、江戸名物の火事にそなえました。

59歳になった忠相は、寺社奉行になり、やがて三河(愛知県)に1万石の領地をあたえられ、大名に列せられました。

吉宗の死から半年ご、74歳の忠相もしずかに世を去りました。


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