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(28)

石田梅岩(1685-1744)

石田梅岩は、町人の道を教える心学をはじめて説いた、江戸時代中ごろの学者です。

丹波国(京都府)の農家に生まれた梅岩は、10歳のとき京都の商家に奉公にだされ、一時は、奉公先がおちぶれて帰郷しましたが、22歳の年に、ふたたび京へでて呉服商にやとわれました。

そのころ、京都や大坂(大阪)では、幕府がおかれている江戸とともに商業が活発になり、商人を中心にした町人社会が栄えはじめていました。しかし、幕府が定めた士農工商の身分制度によって、工・商にたずさわる町人は、農民と同じように、武士にくらべると、すべてのことに差別されていました。

梅岩は、商売のかたわら、神道、儒教、仏教などを自分の力で学んでいきました。町人への差別を不満に思い、人間が人間らしく、町人が町人らしく生きる道を求めたからです。35、6歳ころからは、人の道を説く儒者たちの教えにも耳をかたむけ、自分の考えを深めていきました。

ある日、梅岩は家の前に張り紙をだしました。

「学問のすきな人は、だれでもえんりょなく、わたしの話をききに、おいでください。お金はいりません」

人間のほんとうの心のあり方をさぐりあてた梅岩は、それを世の中に広める決心をしたのです。

「町人として、りっぱに生きていくためには、正直、倹約、かんにんの3つを、心がけなければいけません……」

むずかしい学問を説くのではありません。梅岩の口からもれるのは、どんな人の心にもしみ入る、やさしい教えでした。梅岩が語るだけではなく、考えることのたいせつさをさとらせるために、町人どうしで話しあいもさせました。また、人の生き方を説きながら、商人として守らなければならないことも教えました。梅岩は、もうけさえすればよいという商人の考えには、反対だったからです。このほか、養父養子の義理や財産相続の問題など、町人の日常の生活に必要なことも教えました。

44歳のときには『都鄙問答』4巻を著わして、それまで説いてきたことを世にだしました。また、手島堵庵をはじめおおくの門人を育て、それぞれ道場を開かせて、さらに全国各地へ教えを広めさせました。のちに道場は200あまりを数えるほどになったということです。

梅岩は、59歳で、心学にささげた一生を終えました。町人のなかから芽ばえた学問が、これほど広く人びとに受け入れられたことは、かつてなかったことでした。


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