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(28)

青木昆陽(1698-1769)

青木昆陽は、江戸時代中期に蘭学の基礎をきずいた蘭学者ですが、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者としても有名です。

1698年、江戸(東京)日本橋の魚問屋に生まれた昆陽は、若いころから学問がすきで、京都にのぼって儒学者伊藤東涯に学びました。東涯の学問は、古義学という学風で、実さいに役に立つ学問、実学を重んじていました。昆陽がのちに甘藷(サツマイモ)の普及に努力したのも、東涯の研究のしかたを身につけていたからでしょう。

江戸に帰った昆陽は、小さな塾を開くかたわら、両親のめんどうをみていました。やがて父が死に、3年ごに母が死ぬと6年ものあいだ喪に服していました。そんな孝行心が学問とともに世に知られ、町奉行大岡忠相に認められるようになりました。

そのころの日本は、4、5年ごとに米のとれない年がくり返され、おおくの人が飢えに苦しんでいました。とくに1732年からよく年にかけて全国的な不作にみまわれました。各地で一揆がおき、飢え死にする人もかなりの数にのぼりました。

「そうだ、甘藷がいい。甘藷のおかげで薩摩(鹿児島)ではひとりも飢えた人はなかった。甘藷は荒れ地でもたくさんできる」

昆陽は、サツマイモについて、さらにくわしく調べました。そして、サツマイモの効用、作りかた、食べかたなどを記した『甘藷之記』を書いて、大岡忠相にさしだしました。忠相はすぐにそれを将軍吉宗に報告しました。吉宗は感心して、さっそく昆陽に試作するように命じました。

小石川の薬園などでおこなわれた試作は成功し、その年の秋には、まるまると肥えたサツマイモがたくさんとれました。

「うーむ、これは味もよい。ぜひ国じゅうに広めてくれ」

吉宗の命をうけて昆陽は、実地の研究をもとにしたサツマイモのやさしい作りかたの本と種イモを、いたるところにくばって栽培をすすめました。昆陽が「甘藷先生」といわれるようになったのは、このためです。サツマイモが全国に普及すると、昆陽はその功績により、幕府の書物方となり、のちに書物奉行にまでなりました。一町人の子が、幕府の奉行にまでなったのですから、当時としては、たいへんな出世でした。

将軍吉宗は、さらに昆陽にオランダ語を学ぶことを命じました。昆陽は江戸にきたオランダ人から、いろいろなことを学び『和蘭文訳』などを書いて、蘭学がさかえるもとをひらきました。これらの本は、のちにオランダ医学書をほん訳した杉田玄白や前野良沢らの基礎となっています。


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