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(28)

円山応挙(1733-1795)

あるとき応挙は、山かげに眠っているイノシシをかきました。ところが、絵を人に見せると「背中のいかり毛が立っていない。このイノシシは病気で死にかかっていたのだ」といわれました。そこで応挙は、こんどはほんとうに眠っているイノシシをさがしだして、写生をしなおしました。

これは応挙が、実物そのままの絵をかくために、いかに写生をたいせつにしたかを伝える話です。

円山派とよばれる、写生をきそにした日本画を完成した円山応挙は、1733年に、丹波国(京都)の農家に生まれました。

少年時代に農業をはなれて寺にあずけられたことがありました。しかし、絵がすきだった応挙は、15歳になったころ京都にでて呉服屋などではたらきながら、狩野派の石田幽汀の弟子になって絵を学び始めました。

応挙を、初めに有名にしたのは、オランダ・中国から渡ってきて日本人をおどろかせていた眼鏡絵です。それは、箱にレンズと反射鏡をつけて、そこから箱の中をのぞくと、箱の奥の絵が浮き出して見えるというものでした。

応挙は生活に困って、この絵をかいているうちに、遠くのものはほんとうに遠くに見えるようにえがく遠近法や、ものをありのままにえがくための写生法を身につけ、眼鏡絵の画家として名を高めたのです。

30歳をすぎた応挙は、眼鏡絵でおぼえた技術を取り入れて、山、木、花、鳥などの日本画をおおくかくようになりました。そして、40歳までの10年ちかくは、絵の才能をみとめられて近江国(滋賀県)園城寺の円満院宮にめしかかえられ、東洋の古い絵を写して学びながら、さらに、うでをみがきました。

応挙が、のちの世に残る、ほんとうにすばらしい絵をかくようになったのは、40歳をすぎてからのことです。とくに、びょうぶ絵や、ふすま絵に力をそそぎ『孔雀図屏風』『遊虎遊鶴図襖絵』『雪松図屏風』などで、天下一の画家とたたえられるようになりました。応挙の名をしたって集まった弟子たちは、おおいときは100人を越したといわれています。

しかし、年をとってからの応挙は目が不自由になり『保津川図屏風』を最後に、江戸時代の中ごろに花を咲かせた、62歳の生涯を終えました。

画家としては、はなやかでしたが、自分の生活では、着るものも、食べるものも、住むところも、まったく気にしませんでした。ただ絵をかくことだけに、情熱をそそぎつくしたのです。


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