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(28)

上田秋成(1734-1809)

丈部左門は、あるとき旅先で病気で苦しんでいる赤穴宗右衛門を助けました。そして、心がとけあったふたりは、やがて兄弟のちぎりをむすびました。ある日、宗右衛門は、秋の菊の節句には必ずもどると約束して、郷里へ旅立ちました。さて、菊の節句の日、左門が待ちわびていると、夜になって宗右衛門がもどってきました。ところが、宗右衛門は、左門が用意した酒ものまず「わたしは、もうこの世にはいないのです」といって、かき消すように見えなくなってしまいました。宗右衛門は郷里にとじこめられてもどれなくなり、自害して幽霊となって、約束を果たしに左門のところへやってきたのでした。

この怪談は、上田秋成が、中国の古い物語をもとにして書いた『雨月物語』のなかのひとつです。

秋成は、1734年に摂津(大阪)曽根崎で生まれました。しかし、父のことは名も顔もわからず、4歳のときには油屋へ養子にもらわれて、母ともはなれてしまいました。そのうえ、5歳のときに重い天然痘にかかって手の数本の指が不自由になり、暗く悲しい気持ちで、人生を歩まなければなりませんでした。

少年時代から文学がすきだった秋成は、20歳をすぎると、とくに、日本の古い文学に親しむようになりました。そして、俳句や和歌を作り、小説を書き、34歳のころには、すでに名作『雨月物語』をまとめあげていました。

ところが、37歳のときからとつぜん医学を学んで医者になりました。火事で油屋が焼けて家も財産もなくし、新しく生活していくために医者の道をえらんだのです。そして、しだいに生活が豊かになると、医者のかたわら国学を学び、『万葉集』『伊勢物語』などを研究して歴史に残る本を次つぎに著していきました。国学のことで、本居宣長と意見をきそったことは有名です。

1788年、54歳になった秋成は医者をやめました。病人に親切だった秋成は貧しい人びとにしたわれていましたが、ひとりの少年の診察をあやまって死なせてしまい、責任を感じて医者を捨ててしまったのだ、といわれています。

そののちの秋成は不幸でした。京都に住んで、茶道を楽しみ、歌をよみ、小説を書くあいだ、愛していた妻を亡くし、自分は目をわずらい、いつも、心のさみしさと闘いながら生きていかなければなりませんでした。

しかし、苦しい生活のなかでも文学を愛することは忘れず、最後に『春雨物語』を書き残して、75歳で亡くなりました。


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