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(29)

林 子平(1738-1793)

「海国日本を守るためには、海軍の力を強くしなければだめだ」

林子平は、日本が鎖国で外国とのまじわりを閉じている時代に、勇気をだして、海の守りのたいせつさをとなえた人です。

そのころ、世界の大きな国ぐには、発達した科学の力ですぐれた船や大砲を造って、中国や東南アジアの国へのりだし始めていました。また、ロシアも、シベリアを東へ進んで千島や蝦夷地(北海道)へ手をのばそうとしていました。

江戸で生まれ、外国の情勢を耳にしながら成長した子平は、30歳をすぎるとまもなく、行動をおこしました。日本が危機にさらされようとしているときに、机に向かって学問をしているだけではいけない、と考えるようになったからです。

子平は、1772年に蝦夷地へ渡って、この大きな島のようすを調べました。また、1775年から1782年にかけて、鎖国のもとでたったひとつだけ港を開いていた長崎へ何度も出かけて行き、オランダ人に外国の事情を聞きながら、海防問題を学びました。

「やはり、早く、幕府の役人たちの目をさまさせなければ、きっと、たいへんなことになる」

このように信じた子平は、47歳から53歳までのあいだに2つの本を著わして、海防の必要を役人たちに訴えました。朝鮮、琉球(沖縄)、蝦夷などの地図を示し、さらに蝦夷地がロシアにねらわれていることを注意した『三国通覧図説』と、大きな船を建造し、大砲をそなえて、外国の侵略から日本を守らなければならないことを説いた『海国兵談』です。

とくに、全部で16巻という『海国兵談』では、海軍の充実を叫ぶだけではなく、「江戸日本橋を流れる川の水は、中国やオランダまで境なくつづいているのだ」と訴えて、鎖国の世に眠りこけている幕府を、きびしくひはんしました。

ところが、『海国兵談』を出版した、その年の暮れ、子平は幕府に処罰され、本を印刷した板木をとりあげられたうえに、仙台の兄の家から外にでてはならぬ、と命じられてしまいました。外国が日本をおそってくるなどと言って、日本をさわがした罰だというのです。

「親もなし妻なし子なし板木なし、金もなけれど死にたくもなし」。子平はこんな歌をよんで、やがて、55歳でさみしく亡くなりました。死のまえの年に、ほんとうにロシアの使節が根室に現われ『海国兵談』はしだいにみとめられるようになりましたが、罪がゆるされて初めて子平の墓が建てられたのは、死ご50年もたってからのことでした。


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