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(29)

喜多川歌麿(1753-1806)

江戸時代に日本画のひとつとして興った浮世絵は、江戸時代のなかばをすぎたころから、あざやかな色を使った版画によって印刷した,錦絵とよばれるものがよろこばれるようになってきました。喜多川歌麿は、その錦絵に美人をえがいて名をとどろかせた浮世絵師です。

歌麿は、江戸幕府ができてちょうど150年めの1753年に生まれました。生まれたところは、武州(埼玉県)とも江戸ともいわれています。幼いころのことは不明ですが、少年時代は虫とあそぶことと絵をかくことが、たいへんすきだったということです。そして、おそらく少年時代の終わりころから、狩野派の日本画家鳥山石燕の弟子になって、絵の勉強を始めたのだろうとみられています。

自分のこころざしをつらぬいて画家になった歌麿は、初めは、本の表紙絵や、物語のなかのさし絵をおおくかきましたが、30歳のころからは、美人画をえがくようになりました。

やがて、それまでの美人画にはみられなかった大たんな絵を発表して、江戸じゅうの人びとの目を見はらせました。それは「美人大首絵」とよばれた絵です。ほかの絵師がかいた美人画は、生活のなかの女性のすがた全体をえがいたものがほとんどでしたが、歌麿は、顔や上半身だけを大きくえがきました。からだの美しい形よりも、からだのなかからにじみでている女性のほんとうの美しさや、顔に表われている心を、表現しようとしたのです。

人まねがきらいだったという歌麿は、自分だけにしかえがけない理想の美人画を、完成させようとしたのだといわれています。歌麿によって、美人画に生きた血がかよわされた浮世絵は、すぐれた芸術へ高められました。

ところが、51歳になったときのことです。太閤豊臣秀吉が京都の東山へでかけてあそんだときのようすを、錦絵にえがいたことが、幕府にとがめられて3日のあいだ牢につながれ、50日のあいだ手にくさりをはめられてしまいました。そして、そののちは浮世絵がすっかりかけなくなったまま、2年ごに、53歳の生涯をさみしく終わってしまいました。

歌麿と同じころ活やくした浮世絵師に、東洲斎写楽という人がいました。この写楽も、大首絵をえがいて有名になった画家です。でも、美人画ではなく、おおくは、歌舞伎役者の顔をえがいたものでした。歌麿の大首絵と写楽の大首絵は、人物画のけっ作として、オランダのゴッホなどにも愛されました。


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