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(29)

十返舎一九(1765-1831)

江戸の遊び場にやってくる町民たちのすがたを、しゃれた会話を中心にしてえがいた「洒落本」。社会ふうしをもりこんだ物語に黄色の表紙をつけた「黄表紙」。町民たちのふだんの生活や遊びを、たくみな笑いをおりまぜて小説にした「滑稽本」。

18世紀の終わりごろからのちの江戸時代に、町人社会の発展にともなって、このような文学がたいへん流行しました。

十返舎一九は、その代表的な戯作者です。弥次郎兵衛と喜多八のふたりが、つまらないことで大失敗をくり返しながらつづける旅を、さまざまな土地のおもしろい風習やことばをおりこんでつづった『東海道中膝栗毛』の作者、と言ったほうが早いのかもしれません。

一九は、幼名の市九からとって名のるようになった号です。駿河国(静岡県)で生まれた一九は、20歳をすぎるころまでは武家に奉公しましたが、やがて、職をすてて浪人となり、24歳のときに大坂(大阪)で浄瑠璃を書く仲間に加わって、戯作者への道を歩み始めました。

29歳で、江戸へでて、書店へ住みこみました。でも、初めの1年あまりは雑用係でした。ところが、文だけではなく絵も自分でかいて黄表紙『心学時計草』を出版すると、たちまち名が知られるようになりました。そして、結婚して自分の家をもってからは、黄表紙のほか洒落本もぞくぞくと世におくりだしました。まず、人びとをおどろかせたのは、その筆の早さでした。

そのうえ、遊び場に集まる人たちの欲望、人情、恋、あわれさなどをえがいた洒落本の文章は、まるで、遊び場のようすが目に見えるようにおもしろく、江戸じゅうの町人たちの心をひきつけました。しかし、世の中のことをおもしろくえがくことはできても、自分の家庭は、うまくいかなかったようです。

『東海道中膝栗毛』を発表し始めたのは、37歳のときからです。初めは、弥次さん喜多さんの、江戸から京都、大坂までの旅でやめるつもりでした。ところが,あまりの人気に、金毘羅詣、安芸宮嶋詣から木曾街道、善光寺、草津温泉を通って江戸へもどるまでの『続膝栗毛』を書きつづけ、書き終わったときは、57歳になっていました。21年間も膝栗毛にとりくんだのです。

滑稽本の形を完成させた一九は、社会をふうしした狂歌も作り、歴史や伝説から話をとった読本も書き、66歳で亡くなりました。読みものでは人びとに笑いをふりまきましたが、一九自身は、まじめで、むしろ気むずかしいほどの人だったと伝えられています。原稿料だけで生計をたてた、日本最初の人でした。


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