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(29)

佐藤信淵(1769-1850)

「さまざまな学問をおさめ、暗い封建制度のなかで、すでに明治維新ごの新しい日本のすがたを予想していた知識人」

江戸時代が終わる99年まえに、出羽国(秋田県)で生まれた佐藤信淵は、このような評価で歴史に名を残している学者です。

佐藤家には、なん代もまえから、農業、産業、地理、博物学、医学などについての、とくべつの学問が伝わっていました。信淵が、この学問を受けついだのは、当然です。

少年時代の信淵は知識欲がたいへん強く、15歳で父を失うと、家に伝わる学問を、自分の力でまとめようと決心しました。そして、江戸へでて蘭学、動物学、植物学、天文学をはじめ、測量の技術や外国の歴史なども学び、さらに20歳になったころからは九州、四国、山陰をまわって、それまで学んできたことを自分の目でたしかめながら、さらに知識を深めました。

江戸へもどった信淵は、医者として生活をたてるかたわら、国学者の平田篤胤から、日本のむかしからの文化を重んじる学問を学び、自分の考えを理想的な国家の建設という方向でまとめていきました。

信淵が頭にえがいた政治のすがたは、江戸幕府のように大老、老中、若年寄、目付、奉行などの人が中心になって組織されたものではなく、もっと近代的なものでした。

たとえば、政府には、農事府、開物府、製造府、融通府、陸軍府、水軍府および大学校をもうけ、地方にも、政治や教育をつかさどる役所をおいて、りっぱな統一国家として国をおさめていくことを考えました。これは、幕府の下に、たくさんの藩がばらばらに独立していた江戸時代のすがたにくらべると、たいへん進んだものでした。

信淵は、とくに、農業を中心にして国の繁栄をはかっていくことのたいせつさを、強く訴えましたが、これも、日本の国のすがたに、よくあったものでした。

しかし、このようなことを、幕府や藩にまねかれて説いても、ほとんど、受け入れられませんでした。封建時代の武士たちにとっては信淵の考えが新しすぎたうえに、すぐ実行できないことがおおかったからです。けっきょく、信淵は,数千巻の著作を残しただけで、81歳で亡くなりました。

「佐藤家には、ほんとうに、なん代も伝わった学問があったのだろうか。信淵には大きなことを口にするくせがあったのだ」

こんな批判もあります。でも、新しい時代を見通したすぐれた学者であったことは、まちがいありません。


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