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(29)

頼山陽(1780-1832)

頼山陽は、第11代将軍徳川家斉が江戸幕府をおさめていたころの学者です。歴史家、詩人としても、高名を残しています。

山陽は、大坂(大阪)で生まれ、安芸国(広島県)で少年時代をすごしました。父も祖父も伯父も学問をこのみ、母も、文芸にしたしむ人でした。このめぐまれた環境に育った山陽は、幼いころから自然に学問に魅せられていきました。15歳をすぎたころには、すでに、平氏、
源氏から徳川氏までの武家の流れをたどる『日本外史』を著わす考えを、まとめていたといわれます。

17歳のとき江戸へでて、幕府が建てた学問所の、昌平黌へ入りました。でも、わずか1年で安芸の両親のもとへ帰ってくると、およそ2年ごには家のあとをつぐ権利をうばわれて、家に閉じこめられてしまいました。京都や大坂へ行って気ままに暮らし、家がつかえてきた広島藩をかってにしりぞいて、脱藩の罪をおかしてしまったからです。

家の門を自由にでることをゆるされたのは、25歳のころだったと伝えられています。でも長いあいだ家に足をとめられたことは、学者としての山陽には、かえってよかったのかもしれません。そのあいだに『日本外史』の筆を起こして、26歳のころには全部で22巻の下書きを終えてしまいました。

そののち山陽は、父のせわで塾の先生をつとめましたが、数年ごには、そのまま田舎にうずもれてしまうのをきらって都へのぼり、京都へ住みつきました。そして、自分の塾を開き、ひまをみつけては各地へ旅をしました。親孝行の心が深かった山陽は、父と母のいる安芸へも、なんども帰り、さらに遠い九州へも足をのばして、旅のとちゅうで『天草洋に泊す』などの名詩をたくさん作りました。

山陽の名が、ほんとうに広まったのは、40歳をすぎてからでした。46歳のときに、20数年かけて完成させた『日本外史』を江戸幕府の松平定信に献上すると、国じゅうの学者との交わりがふえて名があがり、広く尊敬されるようになったのです。とくに、正義をつらぬいた大塩平八郎とは深くまじわり、平八郎が著わす本に文をそえる約束もしました。でもこれは、自分の死で果たせませんでした。

山陽は、そのご、さらに歴史上のできごとを年代順にまとめる『日本政記』を書きすすめながら、いっぽうでは、書、絵、茶などを愛する心豊かな生活を送り、学問に生きた生涯を52歳で終えました。1858年に起こった安政の大獄で、吉田松蔭とともに首をはねられた頼三樹三郎は、山陽の3男です。


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