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(29)

大塩平八郎(1793-1837)

江戸時代も終わりに近い1833年から1839年にかけて「天保のききん」とよばれる大ききんがつづき、日本じゅうで数えきれないほどの人が死んでいきました。このとき、貧しい人びとを助けるために命をかけて戦ったのが、大塩平八郎です。

平八郎は、大坂(大阪)で生まれました。父は、町奉行につかえて町の犯罪をとりしまる与力でした。

25歳のころ、平八郎も与力になりました。与力は、あまり身分の高い役人ではありません。でも、平八郎は、社会の悪を正していく与力の仕事に、誇りをもっていました。武芸といっしょに学問を深く学び、とくに「正しい心のはたらきを、どこまでもつらぬきとおせ」と説く陽明学(儒学のひとつ)の教えを、心から信じていたからです。

平八郎は、むずかしい事件を次つぎに解決して、名与力とたたえられるようになりました。ところが、信頼していた奉行が町奉行をしりぞくと、自分も、職を子どもにゆずって、与力をやめてしまいました。まだ37歳の若さでした。

学問の道を歩み始めた平八郎は、塾を開いて人びとに陽明学を教え、自分も勉強をつづけました。そして、わずか4、5年のあいだに、陽明学をのちの世に伝えるための本を、何さつも著わしました。また自分では「心を大きくもって、うそいつわりなく生きていく」ことを守りながら、いっぽうでは幕府の政治にも目を向け、ゆがんでいる政治には、きびしい批判をつづけました。

天保のききんが起こりはじめたのは、平八郎が、学者の道へ入って、3年めくらいからでした。

平八郎は、飢え死にしていく人びとを救うように、町奉行所へ、なん度もたのみました。でも、奉行所は、なにも聞き入れようとはせず、こっそり集めた米を幕府へおさめるのに、いっしょうけんめいになるばかりでした。くわえて商人たちは、米を買い占め、ねだんをつりあげるいっぽうでした。

「幕府は悪い。商人が悪い。よし、こうなれば米倉をおそえ」

1837年2月、平八郎は、自分の本を全部売ってお金にかえ、そのお金を苦しんでいる人びとに、すべて分けあたえると、農民たちといっしょに、ついに、反乱ののろしをあげました。しかし、大坂の町を焼いただけで反乱は失敗に終わり、平八郎は、自害してしまいました。44歳でした。この反乱を「大塩平八郎の乱」といいます。反乱は成功しませんでしたが、悪政をばくろして幕府の政治に、大きなえいきょうをあたえました。


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