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(30)

ペリー(1794−1858)

1853年7月、江戸(東京)に近い浦賀沖を走る4せきの船を見て、人びとはびっくりしました。まっ黒なけむりをはき、大きな水車のような輪をぐるぐるまわしながら、波しぶきをあげて走ってきたからです。「黒船きたる!」。とどろく砲声に、江戸の町は大さわぎになりました。

アメリカからこのかん隊をひきいてきた、総司令官がペリーでした。ペリーは、15歳のときから海軍生活をおくり、アメリカ海軍に蒸気船をいち早くとり入れた軍人です。そのため「蒸気海軍の父」とよばれたほど、時代の流れを鋭くみぬく眼をそなえていました。色黒で二重あごの大男でした。からだが大きかっただけでなく、人をおさえつけるいげんがあったので、部下はひそかに巨人(タイタン)とあだ名していました。

当時のアメリカは、清国(中国)と通商条約をむすんで、貿易をはじめていました。アメリカから清国へ行くには、大西洋からインド洋をまわるより、太平洋を横断するほうがずっと便利です。それには、食料や燃料を日本の港で補給しなければなりません。

ペリーは、日本の国情をしらべ、アメリカ政府に意見書を出しました。その意見書に動かされた議会は、鎖国をしていた日本に開国をうながそうと決議し、ペリーを派遣しました。

「私は、アメリカ大統領の親書を持ってきた。どうしても受けとらないならば、将軍に直接談判する」

ペリ−の要求を受けた江戸幕府は、うろたえながらも相談した結果、親書を受けとることになりました。ただし、返事はあとにのばし、ひとまず帰国してもらうことが条件でした。

「こんどこそ幕府の承諾をとってやる。もし拒否したなら力ずくでもこちらの要求を通してみせるぞ」

よく年2月、7せきの大かん隊をひきつれたペリーが、ふたたび日本にやってきました。大かん隊は、会見予定地にあてられている久里浜港で待機していましたが、幕府の返事がおくれていることに腹をたてて、さっさと品川沖までのりこみ、いまにも上陸しそうな気配です。

これに対抗する力のない幕府は、1854年3月、ペリーの要求にくっして、下田港と箱館(函館)港を開港することを約束した日米和親条約を結びました。こうして、200年以上もつづいた鎖国は幕をとじ、日本は開国の第一歩をふみ出しました。ペリーは、そのご、日本に関するおおくの書物を残して、1858年3月に亡くなりました。


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