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(30)

水野忠邦(1794−1851)

水野忠邦は、江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる政治家です。

1794年、唐津藩主水野忠光の次男として生まれた忠邦は、17歳で藩主になりました。忠邦はかねがね、幕府の政治に不満を持ち、自分が老中になって政治をやりなおすならば、力の弱まった幕府の息をふきかえすことができると考えていました。しかし、唐津藩主は、貿易港の長崎を守る大役があって、両方やるわけにはいきませんでした。そこで忠邦は、唐津藩から遠州(静岡県)浜松藩に国替えすることを将軍にねがい出ようと考え、重臣たちに話しました。

「殿、お国替えなど、めっそうもございませぬぞ」

家老の代表が、はねつけるようにそういうと、ほかの家来たちもいっせいに同調しました。国替えになると、収入が20万石から、6万石に減ってしまうからです。

「私は藩主だ。藩主の命令がいやなら、荷物をまとめて去れ」

忠邦の決然とした態度に、家来たちはみなおしだまりました。

やがて浜松に移り、老中になった忠邦は、家慶が12代将軍になると、念願の大改革にとりかかりました。

この当時は、家康が幕府をひらいてから200年あまりもたち、商業の発達にひきかえ、武士階級の力は次第におとろえていました。長い太平の時代がつづいて、武士たちは剣術よりも、うたやおどりなど芸ごとに夢中になり、幕府も大名たちも、商人から借金をかかえて苦しんでいるようなありさまでした。そこへ追いうちをかけるように「天保の大ききん」がおこり、各地で一揆があれくるって、世の中はたいへん乱れていました。

「このままでは幕府があぶない」そう考えた忠邦は、自分と意見のあわない役人や、役に立たないと思われる役人をたくさんやめさせたのを手はじめに、数かずの改革を開始しました。

農村から江戸にでてきている農民に、村にかえって農業にはげむように命じた「人返し令」。商品の独占とりひきをやめさせて物価の安定をはかった「株仲間解散令」。また、倹約令を出して、大名から農民にいたるまでこれを守らせ、剣術をすすめ、芸事を禁ずるなど、次つぎに改革をおしすすめました。

しかし、あまりのきびしい取りしまりのため、幕府や大名たちのなかでも忠邦に反対する人たちがおおくなり、改革を開始してからわずか2年4か月で、忠邦は老中の地位を追われてしまいました。そのご忠邦は、出羽国(山形県)に国替えさせられ、56歳でさびしく世を去りました。


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