オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(30)

安藤広重(1797−1858)

安藤広重は、江戸時代の末期に活躍した浮世絵師です。四季おりおりの風景を心から愛し、ここに住む農民や町人のくらしぶりをありのままに表現しました。数かずのすぐれた風景版画はたくさんの人びとに親しまれ、世界にも広く知られています。

広重は幼名を徳太郎といい、1797年、江戸(東京)の下町に生まれました。安藤家は代だい、定火消同心という、江戸城や町内の消防を家業にしてきました。小さいときから絵が大すきで、14歳になると、浮世絵師の歌川豊広を訪ねて弟子入りしました。将来はりっぱな絵師になるつもりだったからです。豊広は、少年徳太郎が並外れた才能の持ち主であることを見ぬき、自分の名前の1字をとって、広重と名のらせることにしました。

広重は、はじめ役者絵や美人画などをかいていましたが、狩野派の絵や水墨画の画法、西洋画の遠近法などを勉強しているうちに、やがて風景画の力をいれるようになりました。

広重が34歳のころです。葛飾北斎の『富嶽三十六景』が大評判となりました。広重はこの絵に強いしょうげきを受けました。大胆な構図と独特の色の使い方で、風景をみごとにえがいていたからです。

その広重にも、まもなく名声をあげる機会がおとずれました。江戸から京都までの東海道を往復することになり、このときのスケッチをもとに『東海道五十三次』を発表したのです。東海道にある53の宿場に、日本橋と京都三条大橋を加えた55枚のつづき絵でした。夕ぐれ近く宿場をめざして道をいそぐ旅人の姿、風呂からあがったばかりの旅人が2階の手すりにもたれてすずんでいる風景、道をゆく飛脚や馬をひく馬子たち、雪げしきや富士山の美しいながめ、黄いろい稲の穂波……。次つぎと移りかわる土地の風景を、きめこまかく描いた風景版画は、たちまち江戸の町で評判になりました。こうして、版画とともに、無名だった広重の名はいちどに広まったのです。

広重は、そのごも各地に旅をして『近江八景』『京都名所』『金沢八景』『木曾街道六十九次』などの名作をのこしました。特に自分の生まれた江戸の風景はおおく『東都名所』『江戸近郊八景』『名所江戸百景』など100種類以上もあります。江戸の町とそこに住む人びとの生活、そして旅を愛した広重は、61歳で亡くなるまで絵をかきつづけました。

広重の絵は、北斎の絵とともに、ホイッスラーをはじめフランスの画家たちに大きな影響を与えています。町人の絵として評価の低かった浮世絵に高い価値を認めたのは、西洋人でした。


もどる
すすむ