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(30)

高野長英(1804−1850)

開国論者として有名な高野長英の一生は、時代を切り開こうとする者が、どんな苦しい目に会い、それに耐えて生き抜かなければならなかったかを教えてくれます。

長英は1804年、陸奥国(岩手県)水沢に生まれました。7歳で父を失い、母の実家にひきとられたのが蘭学をはじめるきっかけでした。養父の高野氏信が杉田玄白の弟子で、長英にオランダ語の手ほどきをしてくれたからです。やがて16歳になると長英は医学をおさめようと江戸に出ました。はじめ玄白の養子杉田伯元につき、さらに伯元のすすめでオランダ内科医学で名高い吉田長叔の弟子になりました。長英の勉強ぶりはたいへんなもので、まもなくオランダ語の辞典の翻訳を手がけるほどの進歩をとげました。

ちょうどそのころ、長崎でオランダ医者シーボルトが「鳴滝塾」を開き、日本の産業や文化を研究するかたわら蘭学をこころざす青年を集めて教えはじめました。これを知った知った長英は、さっそく長崎におもむきました。19歳のときです。

オランダ医学はもちろん、長英はシーボルトの日本研究を助けて資料をまとめたり各地の実地調査をする仕事にも人一倍努力しました。そのなかで長英の社会を見る目はとぎすまされ、自分一人の出世よりも、学んだことを少しでもおおくの人びとの役に立てようと考えるようになりました。

1828年、長崎留学をおえて江戸に帰ろうとしたやさき、シーボルト事件がおきました。シーボルトが日本から持ち帰ろうとした品物のなかに持ち出し禁止の日本地図があったからです。役人の追及は塾生にも及びました。長英は災いをさけ、各地を転てんとしたあげく、1830年10月江戸に帰って町医者になりました。しかし、おだやかな日びは長くはつづきませんでした。

1833年、天保の大ききんがおこると渡辺崋山らとともに長崎での学友小関三英の呼びかけに応じて尚歯会に加わり、飢えに苦しむ人びとを助けるための対策をねって『ニ物考』という本を書きました。この本の中で長英は幕府のやり方を批判したので目をつけられることになったのです。さらに1837年モリソン号を砲撃して退去させた幕府の鎖国政策の誤りを『夢物語』を書いて明らかにしたため、『慎機論』を書いた崋山とともに捕えられてしまいました。6年後、牢が火事になったのにまぎれて逃げ出し、顔を硝酸で焼いて人相を変えてさすらいましたが、ついに、追っ手にとり囲まれて自殺しました。長英は自分の正しいと思ったことは、決して曲げない人でした。


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