オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(30)

緒方洪庵(1810−1863)

緒方洪庵は、日本の西洋医学の基礎を築いたばかりでなく、橋本佐内、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、福沢諭吉ら、近代日本の夜明けに偉大な足跡を残した人たちを育てた、大きな功績があります。洪庵が、松下村塾をひらいた吉田松陰とならび称されるのはそのためです。

洪庵は、1810年、備中国(岡山県)足守藩という小さな藩の武士の家に生まれました。15歳のとき、父が藩の用事で大坂(大阪)におもむいたとき、いっしょに旅をして、洪庵だけそのまま大坂にとどまりました。小さいころからからだが弱く、武芸の道にすすむより医者になることが、自分を生かす道だと考えたからです。そして、蘭方医として評判の高かった中環に弟子入りしました。

勉強家の洪庵は、環のところにいた4年間に蘭学のほん訳書をほとんど読みつくしました。まだほん訳されていないオランダ語の原書がたくさんあることを知った洪庵は、20歳のとき、環のすすめもあって江戸へ出て、蘭学医の大家である坪井信道や宇田川榛斎の教えを受けました。その間数さつのほん訳書を著わすまでになりましたが、それでもまだ満足できない洪庵は、さらに長崎へ行き、ニーマンというオランダ医について、医学や語学の教えを受けました。

28歳になって大坂に戻った洪庵は、開業医となりました。そして、日本ではじめて種とうをおこなったり、コレラの対策に力をそそいだり、日本最初の病理学書『病学通論』や、たくさんのほん訳書を著わすなど西洋医学の普及につくしました。

また、医者としてのかたわら、蘭学を学ぶ学校、適塾(適々斎塾)もひらきました。塾の名は、「他人の干しょうを受けないで、自分の適とすることを適とする」という意味をもっており、はっきりと自分を主張することを大切にしました。適塾の自由な学風と、洪庵のすぐれた学者としての名声をしたって、全国からたくさんの弟子たちが集まりました。その数はおよそ25年間に3000人におよんだといわれています。

こうして洪庵の誠実な仕事ぶりがみとめられるにつれ、将軍の侍医に推せんしようという運動がおこりました。洪庵はなんども辞退しましたが、ついにことわりきれず、1862年に江戸にのぼりました。将軍の侍医として仕えるかたわら、医学所頭取として西洋医学を教えました。しかし、上京したよく年6月、大坂にのこしてきた家族をなつかしみながら、52歳で亡くなりました。


もどる
すすむ