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佐久間象山(1811−1864)

幕末のころの日本は、朝廷を尊び外国をうちはらおうという尊皇攘夷派と、幕府をたすけて外国のために港をひらこうという佐幕開国派とが対立して、はげしくいがみあっていました。佐久間象山は、佐幕開国論者を代表する思想家、兵学者です。

象山は、信濃(長野県)松代藩の身分の低い武士の子として生まれました。幼いときからかしこく、行動がすばやいことで知られ、22歳ごろまでに、城下町ではもう何も学ぶものがないほど学問にはげみました。

22歳で江戸(東京)に出た象山は、漢学者佐藤一斎に弟子入りし、朱子学を勉強しました。そしてそのかたわら、新進蘭学者として新しい考え方をもつ渡辺崋山、杉田玄白たちとまじわり、オランダ語の勉強をはじめました。

原書を自由に読めるようになると、象山は、その知識を実際に応用しなければ気がすみませんでした。松代に帰って、養豚、ブドウ酒の製造、西洋医学による病人の治療、鉱山を開き、ガラス工場をたてるなど、藩の近代化につとめました。

31歳のとき、藩主が幕府の老中となり、海防掛を命じられると、象山は顧問にとりたてられました。象山はさっそく砲術の大家である江川太郎左衛門の門人になって、西洋砲術を研究しました。

象山が国防についてさらに関心を深めたのは、朱子学によると完全なはずの清国が、アヘン戦争でイギリスに負けるというまったく思いがけないニュースを耳にしたときからです。それ以来「東洋道徳、西洋芸術」つまり、日本の進むべき道は、西洋の進んだ技術や科学は取りいれて、精神は東洋の儒学であるべきだと説くようになったのです。

1850年、象山は、江戸に出ると、深川の松代藩邸で塾を開き、兵学の講義をしました。名声を聞いて集まった弟子は、吉田松陰、橋本佐内、坂本龍馬、勝海舟ら500人にものぼりました。

ところが1854年、ペリーの船で密航をくわだてた弟子の松蔭が幕府にとらえられると、まもなく象山も松蔭をそそのかした罪でつかまってしまいました。そして、郷里の松代藩にとじこめられてしまったのです。

罪をゆるされたのは、それから8年後のことでした。しばらくして京都に出た象山は、朝廷と幕府は力をあわせなければならないことや、今は攘夷のときではないことを公家や諸大名に熱心にといてまわりました。しかし、1864年7月、攘夷派の人たちにおそわれ、波らんにとんだ生涯を閉じました。


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