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(30)

井伊直弼(1815−1860)

井伊直弼は、江戸時代の末期、対外的には200年来つづいていた鎖国体制がゆさぶられ、また国内的にも幕藩体制がゆるぎはじめたむずかしい時期に、幕府の最高責任者である大老として活躍した人です。歴史の曲がりかどに生きた直弼の一生は、個人の運命と時代の流れとのかかわり合いについて、さまざまなことを考えさせてくれます。

1815年10月、直弼は近江(滋賀県)の11代彦根藩主、井伊直中の14番目の男の子として生まれました。4歳で母を失い、16歳で父を亡くすと、直弼は長兄の12代藩主直亮から城外に小さな屋敷を与えられ、命じられるままにそこに移り住みました。このとき直弼は自らの住みかを埋木舎と名づけ、一生ここに埋もれて過ごす覚悟をきめ、出世の望みも捨てました。ただ若いエネルギーと知識欲はおさえることができません。茶道や国学の研究に、あるいは禅や居合の修行に、直弼は全力を注ぎました。

ところが直弼が31歳のとき、藩主直亮の養子直元が病死してしまい、かわりに直弼が養子に選ばれることになりました。さらに4年ご、藩主直亮も亡くなり、思いがけなく35歳にして直弼は13代彦根藩主となったのです。知識や体力はもちろんですが直弼がなみの藩主とちがうのは、埋木舎の時代を通して私利私欲にとらわれない冷静な判断力を身につけていたことです。まもなく直弼は名君として人びとの信頼を集めました。

1853年、アメリカ使節ペリーが浦賀(神奈川県)にあらわれ幕府に開国をせまる事件がおきました。産業革命をなしとげた欧米の列強による海外市場の開拓の波が、ついに日本にも打ち寄せてきたのです。天下は開国か攘夷かで大混乱となりました。翌年ペリーが再来し、武力をちらつかせながら江戸湾深く乗り入れると幕府はやむなく和親条約を結びましたが、アメリカの本当のねらいは通商条約です。困りはてた幕府は名君のほまれ高い直弼を大老の位につけてことに当たらせることにしました。直弼はアメリカと戦っても勝ち目のないこと、さらにヨーロッパ列強につけ入られるすきを与えないためには通商条約もやむなしとの断をくだし、1858年、条約は調印されました。怒ったのは水戸藩の徳川斉昭をはじめとする攘夷論者の人たちです。

ここにいたって直弼は力による弾圧で難局を切り抜けようとして「安政の大獄」を引きおこしてしまいました。これを恨んだ水戸浪士らによって、1860年3月3日直弼は江戸城の桜田門外で殺され、直弼を失った幕府も衰亡への道を急ぐことになりました。


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