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(31)

中浜万次郎(1828−1898)

中浜万次郎は、日本が鎖国から開国になろうとする時代に、漂流が大きく運命を変え、漁師の子でありながら、武士にとりたてられて英学者にまでなった人です。

万次郎は、土佐国(高知県)の漁師の家に生まれ、子どものころから漁の手つだいをして家のくらしを助けていました。

1841年、万次郎が13歳のとき、浜の人たち4人と漁に出ました。ところが、途中で暴風雨になり、7日間もさまよったすえに、鳥島という無人島に流れつきました。5人は雨水をたくわえては飲み、アホウドリをとらえ、貝をひろい、木の根をほって飢えをしのぎ、夜はほら穴にねむるという苦しい毎日を送りました。そして約半年ご、運よくアメリカ捕鯨船ジョン・ホーランド号にすくわれました。船長も船員も親切で、かしこくてよくはたらく万次郎を、船の名をとって「ジョン万」と呼んでかわいがりました。船は無事ハワイにつきましたが、4人の仲間はハワイで降り、船長に気に入られた万次郎は学校へ通うため、アメリカ本土に渡りました。そして、船長の郷里で測量や航海術を学んだあと、捕鯨船に乗って太平洋をかけめぐりました。しかし、日本への思いはつのるばかりでした。

1850年、23歳になった万次郎は、商船にやとわれてハワイにいる仲間たちのところへいきました。4人のうちひとりはすでに死に、ひとりはハワイに残ることになって、3人で中国ゆきのアメリカ汽船に乗りこみました。船が琉球(沖縄)の沖にさしかかったとき、小舟をおろし、死をかくごで沿岸に上陸しました。鎖国をしていたそのころは、1度外国に出た者は、2度と日本の土をふめなかったからです。3人はすぐに捕えられ、きびしいとり調べを受けましたが、やがて釈放され、1852年10月、12年ぶりになつかしい故郷に帰ることができました。

ふたたび漁師の生活にもどった万次郎のところへ、まもなく藩の使いがきました。万次郎の語学力と的確な話ぶりに感心した山内豊信が、万次郎を武士にとりたてて、藩の学校の先生に登用しようというのです。藩の有志は、万次郎から外国の話を聞いたり、英語を学びました。そのなかには坂本龍馬や岩崎弥太郎のすがたもありました。

1853年に、万次郎は幕府に抜てきされ、造船技術や航海術などをおしえました。幕府が訪米使節団を派遣したときには、勝海舟らの通訳として咸臨丸でアメリカへ渡りました。帰国ごは開成学校(のちの東京大学)の教授にもなって、新しい学問や文化の発展につくしました。


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