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(31)

大久保利通(1830−1878)

明治維新をおしすすめ、近代日本のきそを築いた中心人物は、「維新の三傑」とよばれている西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の3人です。とくに利通は、明治新政府の土台をささえた最大の指導者といってよいでしょう。

1830年、利通は薩摩藩(鹿児島県)の下級武士の家に生まれ、西郷とは同じ町内にすむ幼なじみでした。少年時代から利通は、冷静にものごとを判断する性格で、武芸よりも文才にぬきんでたものがありました。しかし、20歳のころ、父が藩の世つぎをめぐる争いにまきこまれて島流しにあい、利通は一家の中心になって家計のきりもりをしなければなりませんでした。利通のねばり強さは、この時代にきたえられたといわれています。

幕末のころの薩摩藩は、藩主島津忠義の父久光が実権をにぎっていました。利通は、この久光に近づいて重く用いられるようになり、しだいに藩政に参加できるようになりました。利通の考えは、はじめのうちは朝廷と幕府が力をあわせて政治をおこなう公武合体論というものでしたが、しだいに幕府を倒して、天皇を中心にした新しい政府を作るという意見に変わりました。

やがて、西郷とともに薩摩の指導者となった利通は、討幕の方針をとるように藩の意見を変えさせ、1866年には坂本龍馬のあっせんにより、長州藩と手をにぎりました。さらに翌年には、討幕派の岩倉具視とひそかに通じて、王政復古の計画を綿密にたてるなど、激動する幕末の政局に終始指導的な役割をはたしていきました。

幕府がたおれて明治政府ができると、利通は西郷、木戸らと協議しながら、藩の領地や人民を天皇に返させる「版籍奉還」、藩そのものをなくして府県制度にする「廃藩置県」、士農工商の身分制度をやめるなど、数かずの政策を実行しました。

利通は1871年、岩倉、木戸、伊藤博文らと欧米視察の旅に出ました。この旅行で、諸外国の進歩した政治や経済のしくみをみた利通は、まず国内を整備して日本の力をたくわえることが大切であることを痛感しました。そのため、「征韓論」をとなえて朝鮮に軍隊をおくろうと主張する西郷らと対立しました。西郷は征韓論にやぶれて政府を去り、利通は政府の独裁的指導者になっていきました。

産業の近代化をはかる「殖産興業」と「富国強兵」を旗じるしに、利通は信念をもって、近代国家への足がためを進めました。しかし、利通の専制的なやり方に不満を持つ者もおおく、1878年5月不平士族に暗殺されてしまいました。


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