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(31)

吉田松陰(1830−1859)

幕末の動乱期には、大勢の志士が活躍しましたが、なかでも松蔭はすぐれた学者として、政治の指導者として、また高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、井上馨、山県有朋、伊藤博文らを育てた教育者として、その名は歴史に深くきざまれています。

1830年、長州藩の下級武士の次男に生まれた松蔭は、4歳のとき、山鹿流の兵学をつたえる吉田賢良の養子になりました。まもなく賢良が急死したため、松蔭は吉田家の学問を受けつぐ使命をおわされました。さっそくおじの玉木文之進から学問をきびしくたたきこまれました。猛れつなつめこみ教育でしたが、松蔭はこれにこたえ、9歳のころには神童ぶりがうわさされるようになりました。10歳のとき、うわさを聞いた藩主毛利敬親の前で『武教全書』を講義したと伝えられています。

頭がよいうえに、努力をおしまなかった松蔭は、18歳で藩校明倫館の師範になりました。1850年、世界の大勢に目をそそぐ必要を感じて長崎に遊学し、ひきつづきよく年には江戸に出て佐久間象山らに学びました。

「山鹿流の兵学はもう古い。西洋学を学ばなくては遅れるよ」

象山にこう説かれて松蔭は苦しみました。そして、藩のゆるしを受けずに、東北をめぐる旅で苦しみをまぎらそうとしました。しかし、旅から江戸に帰ると、藩から帰国を命じられました。脱藩の罪に問われ、禄をうばわれて師範の役目もとりあげられたのです。なんとか10年間の諸国留学のゆるしを受けた松蔭は、1853年ふたたび江戸に出て、象山から洋学を学びました。

世の中はちょうど、ペリーの艦隊が浦賀(神奈川県)にきて、大さわぎしているときでした。アメリカの軍艦を見た松蔭は、西洋人の文明がたいへん進んでいるのにおどろきました。そしてついに、象山のすすめもあって、海外渡航を決意するのです。たまたま長崎に入港したロシア軍艦にのりこもうとしましたがまにあわず、1854年、ふたたび来航したペリーの軍艦に命がけで近づきました。しかし、必死のたのみも受け入れてもらえず、おいかえされて、松蔭は長州藩の獄につながれることになりました。でも、牢のなかでは、勉強する機会を天が与えてくれたと読書にふけり、世をすねた囚人たちに学問を教えました。そんな態度がりっぱだったため、藩は松蔭を牢から出しました。

しかし、塾がひらかれたのは、1859年に松蔭をはじめ数おおくの志士たちが死刑となる「安政の大獄」までの、わずか2年半の間だけでした。


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