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(31)

徳川慶喜(1837−1913)

15代将軍徳川慶喜は、江戸幕府さいごの将軍となった人です。長州藩の木戸孝允に「家康の再来を見る思い」といわせ、だからこそ幕府の体制がととのう前に早く倒さねばならないと考えさせたほど、頭のきれる人物でした。将軍慶喜の出現がもう少し早かったら、歴史は大きく変わっただろうといわれています。

慶喜は、1837年水戸藩(茨城県)主徳川斉昭の7男に生まれました。幼い時からすぐれた才知のある人と評判高く、10歳のときに一橋家を継いだのも、将軍となるためには幕府と血のつながりが遠い水戸家より一橋家のほうがよいと、周囲が考えたからでした。慶喜はそのころから将軍候補だったのです。

慶喜が20歳になったころ、慶喜は越前藩主松平慶永が薩摩藩主島津斉彬らに推せんされて14代将軍の候補に立てられていました。ところが、当時の大老井伊直弼らのグループに反対されて実現せず、慶喜は政界から追い出されてしまいました。

1860年、井伊直弼が暗殺されると、やがて14代将軍家持の後見職にかえりざいて、朝廷と幕府のつながりを強くすることに力をつくしました。そして、1866年、病死した家持にかわって慶喜が15代将軍職につきました。

慶喜はさっそく、徹底した幕府改革をおこない、幕府の力で諸藩をおさえこもうと必死の努力をしました。まず、老中会議の体制をあらため、海軍、陸軍、会計、国内事務、外国事務の総裁をおいて、内閣に近い政治体制をつくりました。兵制改革では、フランスから軍事教官をまねいて近代的な軍事訓練をさせました。また、これまでの例を破って、人材を登用し、経費の節約、儀礼の簡略につとめました。その他、税制の改定、留学生を海外へ送り、フランスから経済援助を受けてそのみかえりにフランス商社を設立、製鉄所建設までおしすすめたのです。

しかし、世の中の情勢は慶喜に味方してくれませんでした。開国をせまる諸外国との交渉、薩摩と長州を中心とする討幕派の強硬な動きに、慶喜は1867年土佐藩主山内豊信の進言により、政権を朝廷にかえしました。こうして江戸幕府はおわりましたが、慶喜は諸藩が連合する新政権をつくろうとしました。しかし「鳥羽伏見の戦い」にやぶれて江戸城にひきあげ、そして強硬な抗戦をさけ、上野の寺院に入って謹慎しました。こうして、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟のはたらきで、江戸城は血を流すことなく開城されたのです。そのご慶喜は、水戸に移り、ついで静岡に移動して、76歳まで生きました。1902年には、維新に功績があったとして公爵の位がさずけられています。


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