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(32)

大隈重信(1838−1922)

時代が明治になってまもないころ、長崎でキリスト教徒が、政府から迫害を受ける事件がおこりました。するとさっそく、イギリス公使のパークスが、政府に抗議をしてきました。このとき「日本の内政問題に口を出すな」と、つっぱねて、一歩もひけをとらずに論戦したのが、若い外交官、大隈重信です。

大隈は、1838年、肥前国(佐賀県)の藩士の家に生まれました。幼いころはたいへん泣き虫でしたが、藩校の弘道館に入学してからは、活発な少年に成長しました。その後、蘭学や英語を学び、早くから西洋に対する目を開いてきました。そして、幕府を倒す運動に加わり、明治政府ができると、外交官として活躍を始めました。

パークスとの交渉が評判となった大隈は、外国官副知事に出世して、日本政治の中央舞台へ踊りでました。

政府の中で大隈は、日本がひとつになって国づくりを進めるためには、鉄道の建設や電信の設置などが必要なことを説き、産業を発展させる基礎を固めることに力を注ぎました。しかし、国会開設を求める板垣退助らの運動が高まりをみせると、これに賛成して、伊藤博文らと対立し、政府をとび出してしまいます。そしてよく年、1882年(明治15年)には、立憲改進党を結成して、政党による内閣をつくることを考えました。

また、同じ年に東京専門学校(早稲田大学)を創立しています。学問の独立によって自由な精神を育てることを目ざして、教育の場をつくったのです。

1888年、政府にもどった大隈は、外務大臣として江戸幕府が結んだ外国との不平等な条約の改正交渉に乗り出しました。大隈はあせらずに少しずつ改正しようとする方針です。ところが、一気に対等な条約になることを信じていた人びとは怒り、ひとりの男に爆弾を投げつけられて、右足を失ってしまいました。

条約改正のための努力は実らず、傷心のうちにしばらく政界をしりぞきましたが、1898年、大隈は自由党の板垣と手を結び、憲政党をつくりました。それは、日本で最初の政党内閣でした。

この内閣は、大隈が総理大臣をつとめ、板垣が内務大臣となったため、隈板内閣とよばれています。しかし、党内に対立がおこり、わずか4か月で分裂してしまいました。

その後、早稲田大学の総長に就任し、おおくの本を書き、教だんに立った大隈は、77歳のとき、ふたたび総理大臣をつとめました。民衆政治家とよばれ、いつも青年のような情熱をもちつづけた生涯は、1922年、84歳で終わりをつげました。


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