オンラインブック せかい伝記図書館 巻末小伝
(32)

高杉晋作(1839−1867)

新しい日本の夜明けをひらいた明治維新にいたる道のりのなかで、長州藩(山口県)のはたした役割は大きなものでした。幕府をおいつめるたたかいに、大胆に、しかも細心の戦略をねって第一線で活躍した長州藩の中心的志士が、高杉晋作です。

晋作は、1839年、長州藩の萩城下に150石どりの格式高い高杉家の一人息子として生まれ育ちました。18歳で藩校明倫館に学びましたが、型どおりの教育に満足できず、父の反対をおしきって吉田松陰の松下村塾に入りました。松蔭の国の将来をうれい、生きた学問の大切さを知らされて目をさまし、久坂玄瑞と並んで松下村塾の双へきといわれるほど成長していきました。

しかし、その松陰も、1859年尊皇攘夷の志士たちを弾圧した「安政の大獄」にたおれてしまいました。

「先生、わたしがきっと幕府をたおし、あだをうちます」

晋作は、強く心にちかいました。それからの晋作は、明倫館の舎長になったり、長州藩の世つぎである毛利定広の世話役として江戸にのぼったりしましたがあきたらず、1862年幕府の使節にしたがって清国(中国)の上海に視察旅行をしました。そこで、中国人が欧米人にこき使われている様を見た晋作は、攘夷よりも倒幕へと、考えを変えていきました。しかし帰国後、長州藩は晋作の意見をきこうとせず、上の役人にとりたてようとしたためことわり、10年間の暇を願い出てまげを切りました。

そのころ長州藩では、攘夷論がもえあがり、1863年下関海峡を通る外国船を次つぎに砲撃しました。ところが攘夷の成功を喜ぶ間もなく、アメリカ、フランス、イギリス、オランダの軍艦の逆しゅうにあい、下関市街は破かいされ、おおくの死者を出しました。長州藩にとってこの敗北は大問題でした。

「この窮地をすくえるのは、高杉晋作をおいて他にない」

藩の重臣たちの懇願に晋作は立ちあがり、農民や町人らを集めて奇兵隊を組織しました。この奇兵隊がよび水になって、郷土防衛の意気あがる諸隊が次つぎに結成されていました。

晋作が他の藩にまで名をとどろかせたのは、1864年イギリスなど4か国の連合艦隊が下関に攻げきしてきたのち、その講和条約に長州藩代表として、立派に大役をはたしてからです。

やがて長州藩が討幕攘夷論をかかげると、全国の志士がぞくぞく集まってきました。これに対して幕府は長州征伐をきめようとしていました。幕府に従おうと弱腰になった藩政府に対抗した晋作は、1866年全藩軍を指揮して幕府軍に勝利しました。しかしよく年、晋作は維新を目前にして病死してしまいました。


もどる
すすむ