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(32)

新島襄(1843−1890)

新島襄は、文明開化のためにはキリスト教精神を広めることが大切であると、同志社を設立して、徳富蘇峰、安部磯雄らたくさんの人材を育てた教育者として知られています。

襄は1843年、上野国(群馬県)安中藩の江戸屋敷で、武士の子として生まれ、幼名を七五三太といいました。祖父は時代の流れをしっかりみきわめる進歩的な考えの人でした。その祖父のえいきょうをうけて、少年のころは蘭学を学びましたが、開国をきっかけにして、洋学の主流は英学になっているのを感じとり、英学に転じました。そして、函館に出て英語を学ぶうち、西洋文明を自分の目で確かめたいと思い始めました。

1864年、21歳の襄は、いだきつづけた海外渡航の夢をふくらませて、友人の手引と船長の理解でアメリカ船ベルリン号にのりこみました。日本は開国はしていたものの、海外への渡航は禁じていたので、なかば死を覚悟の密出国でした。まず上海に渡り、ワイルド・ロバート号へのりかえて翌年ボストンへ着きました。襄は船の中で親しみをこめてジョーと呼ばれたため、それから自分の名に襄という寺をあてたということです。

ボストンでの襄は、船主のハーディ夫妻のたすけをうけ、学校へ通って聖書の研究に熱中しました。やがてキリスト教の洗礼を受け、キリスト教に自分の一生をささげる決意をしました。

アメリカに渡って3年目、襄は日本が明治の時代になったことを知りました。26歳でした。それから数年ご、明治新政府の役人たちが外国の進んだ政治や文化を学ぶためにアメリカにもやってきました。案内役をたのまれた襄は、ヨーロッパ諸国をまわりましたが、このとき木戸孝允や田中不二麿ら政府の要人に人物の優秀さを見こまれました。

1874年襄は、3000人のアメリカ伝道協会の会衆の前で、日本にキリスト教の大学を設立するための協力をうったえ、多くの寄付を集めました。そして、その年の秋、襄は10年ぶりに日本の土をふみしめました。

帰国当初、襄の考えはうけ入れてもらえませんでした。特に寺や神社からは、強い反発がありました。それでも襄の熱意と、木戸孝允や田中不二麿らの助力もあって、帰国後1年で「同志社英学校」をたてることができました。

やがて、キリスト教精神と自由主義を学んだ卒業生は、社会の各方面で活躍し、同志社の名は広く知れわたりました。襄は、47歳で亡くなる直前まで、教育と伝道に情熱をかたむけつづけました。同志社が大学となったのは、死後21年目でした。

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